国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。このほか、先住民の言葉で「地の果て」「カモメ」[7]、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来するなどの説がある[8][9]。
歴史詳細は「チリの歴史」を参照
チリは1818年にスペインより独立した。1973年の社会混乱を引き起こしたアジェンデ政権が倒れシカゴ学派を重用したピチェト政権より、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされてきたが、21世紀以降は国民の所得格差・不平等、教育への公的予算は中南米でも下位[10]となるなどの諸問題も抱えている。
政治詳細は「チリの政治(英語版)」を参照チリ大統領府、モネーダ宮殿バルパライソの国民議会
政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である[11]。2008年現在のチリ憲法は、1932年憲法を元にアウグスト・ピノチェトを権力者とする軍政下に改正された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北したあと、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。2022年には制憲議会より大きな政府を志向する左派主導の新憲法案が提示されたが、急進的な内容が災いし9月4日の国民投票では賛成が38%にとどまり否決された[12]。仕切り直しとなった2023年5月7日の制憲議会選挙では現行憲法に肯定的な右派勢力が草案承認に必要な3分の2を確保する結果となり[13]、右派色の強い改憲案が12月17日の国民投票にかけられたがやはり否決されており、1932年憲法を抜本的に改正する憲法を制定する見通しは立っていない[14][15]。
立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は43議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までそのほかに国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。
司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。
チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30か国以内に過去10年間連続してランクづけされており、2022年度のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による腐敗認識指数では27位[16]とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている[17]。
ピノチェト軍事政権から民政移管した1990年以降の中道左派と中道右派の政権交代の下で、右派政権時代は医療・教育・福祉予算を抑える新自由主義路線が維持され、左派政権時代はバラマキとも批判されかねない政策がおこなわれてきた[18]。
国際関係詳細は「チリの国際関係(英語版)」を参照チリと外交関係を有する諸国の一覧図
独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー、ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。
19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期にチリ海軍はイギリスの、法や教育はフランスの[19][20][21]、陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。