1970年代には他者との共同でEuskal Herrian Euskarazバスク語運動を設立した。1982年にはバスク大学で講義を受け持つようになり、後にバスク大学の名誉教授となった[5]。バスク科学知識人コミュニティのイングマには、チリャルデギによる122の論文、書籍、講演集などが示されている[9]。 ビルバオの高等工科学校在学中に学生運動に加わるようになり、やがてバスク・ナショナリズム運動に身を投じるようになった[3]。バスク民族主義党(PNV)の青年部のひとつであるEKIN(行動)の創始者であり、バスクの文化や歴史を研究して機関誌「EKIN」を発行した[3][2]。1957年にはEKINとバスク民族主義党との対立が表面化し、バスク民族主義党から分離してバスク祖国と自由(ETA)となる際には、チリャルデギも首謀者のひとりだった[10][2]。ETAはフェデリコ・クルトヴィッヒの民族理論にイデオロギーを求め、民族解放を主張する革命組織に発展していった[11]。1967年にはマルクス主義と共産主義を激しく批判してETAを脱退し[12][2]、妻子とともにフランスに亡命すると、15年間をパリやベルギーのブリュッセルで暮らした[2]。ETAは1968年に武力闘争を開始した。 フランシスコ・フランコの死後にスペインに戻り、1976年、チリャルデギとイニャキ・アルデコアはバスク社会主義者会議(ESB)という政党を設立した[5][2]。1977年にはETAと関連が深いとされるエリ・バタスナ(後のバタスナ)の創設に関与し、1979年の総選挙でスペイン国会の下院議員に選出された[2][8]。マドリードのアルカラ・ホテルで政治家やジャーナリストと会食中に右翼軍事組織隊員に襲撃されたこともあり、同席者のひとりが死亡したが、チリャルデギはテーブルの下に隠れて無事だった[2]。チリャルデギはETAによる武力闘争は実効的でないと考えており、その後はアララール
政治活動家として
妻との間に2人の息子、1人の娘がいる。息子のホセバ・アルバレスは左派バスク民族主義者である[2]。