チリャルデギ
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著作家や言語学者としてはラレソロ(Larresoro)、イガラ(Igara)、ウサコ(Usako)などの筆名でも活動した。セーレン・キェルケゴールミゲル・デ・ウナムーノジャン=ポール・サルトルなどの実存主義に影響を受けており、また著作家のバートランド・ラッセルにも影響を受けた[7]。出版した書籍の多くはバスク語で書き、また多くの小説や政治評論なども著している。1957年の『Leturiaren egunkari ezkutua』はバスク語で書かれた初の現代的な小説とされており[8]、バスク文学に明確な分割線を引いた。その他の小説には『Haizeaz bestaldetik』(1979年)、『Putzu』(1999年)などがあり、随筆には『Huntaz eta hartaz』(1965年)、『Hizkuntza eta pentsakera』(1972年)、『Euskal Herria helburu』(1994年)などがあり、学術研究には『Euskal fonologia』(1980年)、『Euskal azentuaz』(1984年)、『Elebidun gizartearen azterketa matematikoa』(1984年)などがある。1968年には小説『Elsa Scheelen』でチョミン・アギーレ賞を受賞した。1969年には数学教育用の書籍でアンディマ賞を受賞した。1980年には『Euskal Gramatika』で「銀のラウブル賞」を受賞した。

1970年代には他者との共同でEuskal Herrian Euskarazバスク語運動を設立した。1982年にはバスク大学で講義を受け持つようになり、後にバスク大学の名誉教授となった[5]。バスク科学知識人コミュニティのイングマには、チリャルデギによる122の論文、書籍、講演集などが示されている[9]
政治活動家として

ビルバオの高等工科学校在学中に学生運動に加わるようになり、やがてバスク・ナショナリズム運動に身を投じるようになった[3]バスク民族主義党(PNV)の青年部のひとつであるEKIN(行動)の創始者であり、バスクの文化や歴史を研究して機関誌「EKIN」を発行した[3][2]。1957年にはEKINとバスク民族主義党との対立が表面化し、バスク民族主義党から分離してバスク祖国と自由(ETA)となる際には、チリャルデギも首謀者のひとりだった[10][2]。ETAはフェデリコ・クルトヴィッヒの民族理論にイデオロギーを求め、民族解放を主張する革命組織に発展していった[11]。1967年にはマルクス主義共産主義を激しく批判してETAを脱退し[12][2]、妻子とともにフランスに亡命すると、15年間をパリやベルギーのブリュッセルで暮らした[2]。ETAは1968年に武力闘争を開始した。

フランシスコ・フランコの死後にスペインに戻り、1976年、チリャルデギとイニャキ・アルデコアはバスク社会主義者会議(ESB)という政党を設立した[5][2]。1977年にはETAと関連が深いとされるエリ・バタスナ(後のバタスナ)の創設に関与し、1979年の総選挙でスペイン国会の下院議員に選出された[2][8]。マドリードのアルカラ・ホテルで政治家やジャーナリストと会食中に右翼軍事組織隊員に襲撃されたこともあり、同席者のひとりが死亡したが、チリャルデギはテーブルの下に隠れて無事だった[2]。チリャルデギはETAによる武力闘争は実効的でないと考えており、その後はアララールという政党で活動した。また、アララールがETAの武力闘争の被害者とともに、バスク自治州政府によって組織された団結行動に参加した際には、武力闘争とは公然と距離を取った。2008年の総選挙では、ギプスコア県選挙区からバスク民族主義者行動(EAE)の一員として下院議員に立候補した[8][13]

妻との間に2人の息子、1人の娘がいる。息子のホセバ・アルバレスは左派バスク民族主義者である[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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