1504年、燕山君の暴政を誹謗するハングルの張り紙が各地で発見され、燕山君はハングルの教育や学習を禁止し、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧した[19]。世宗時代に設置されていた正音庁は中宗年間の1507年に閉鎖されたが、ハングルの使用自体は禁止されることなく、一部高官には書記手段として用いる者もいた。1490年に軍官の羅臣傑(1461年 - 1524年)が妻の孟氏に送ったハングル書簡は現存最古のハングル書簡であり[20]、1998年に慶尚北道安東で発掘された李応台(1556年 - 1586年)の墓で亡くなった夫の死を悼む妻からのハングル書簡が発見された。『ウォンの父へ・・・丙戌(1586年)6月』と始まる長文の手紙である。また17世紀に宋奎濂が自分の下男のキチュック(己丑の意)に書いた書簡などが残っている。一方、ハングルは支配層でも使われたケースもあり、王室をはじめ王・王妃の勅令や臣民への伝言、王・王妃と公主のハングル書簡・王族同士のやりとりしたハングルの手紙も残っている[21]。また、宮廷や両班階級におけるハングルの使用もあり、国王の記したハングル書簡としては宣祖の『御筆諺簡』(1603年)筆写文献が現存している。李珥、権好文、金尚容ら両班の文化人の一部が時調(詩歌)を詠む際にハングルが利用された。文定王后・仁穆王后などの諺文勅令や明聖王后が都落ちする儒学者の宋時烈を引き止めるハングル書簡、1839年に憲宗の祖母・純元王后によるキリスト教禁止令である『斥邪綸音』をハングルで書いて公布した。孝宗と三女・淑明公主のハングル書簡のやり取り。左側は淑明公主が父の孝宗に、右側は娘への返事正祖が8歳の時に叔母・閔氏(洪楽仁の妻)に書いたハングル書簡 ハングルはまず、発案者である世宗のもと国家的な出版事業において活用された。ハングルの創製直後1447年には王朝を讃える頌歌『竜飛御天歌』、釈迦の功績を讃えるため世宗自ら書いた詩歌集の『月印千江之曲』[16]、世宗の命により首陽大君が編纂した釈迦の一代記である『釈譜詳節』[16]が相次いで刊行され、次いで1448年には韻書『東国正韻』を刊行した。その後も国家によるハングル文献の刊行は続き、諺解書(中国書籍の翻訳書)を中心にその分野は仏典・儒教関連書・実用書など多岐にわたる。刊行された書籍は各地で覆刻され版を重ねることが少なくなかった。世祖の書簡『上院寺御牒
ハングルでの出版
仏典:李朝初期には刊経都監が設置(1461年)され仏典翻訳が盛んに行われた。その後、国家によって仏教が弾圧されはじめたにもかかわらず、『楞厳経
石幡貞
「朝鮮帰好余録」(1878年)には「朝鮮国文字有二様。曰真文即漢字也。曰諺文是為国字。…以其易学、民皆便之。而政府公文措之不用。(朝鮮には2種の文字がある。真文というのが漢字であり、諺文(※ハングルのこと)というのが国の字とされる。…学びやすいので、民衆は皆これ(※諺文)に慣れている。しかし政府は公文書ではこれを用いない。)」とある[22]。鈴木信仁「朝鮮紀聞」(1885年)には「貧賤の者は諺文のみを習ひ纔かに通用に便するものなり。貧窶にして筆墨を買ふの資なきものは砂を盆に盛て字を習ひ或は河海の浜に往き平坦の石面に大字を習ふ事あり。」とある[23]。
石井研堂 (民司) 「朝鮮児童画談」(1891年)には「又此国には、諺文とて、仮名九十九字あれども、一般に用ひるもの少なく、書状等にのみ用ひ居れり。」とある[24]。
イザベラ・バード「朝鮮奥地紀行」(1898年)には「私は、川上に居る下層社会の非常に多くの男の人たちが、朝鮮固有の筆記文字〔諺文〕を読める事に気付いた。」とある[25]。
「井上角五郎先生伝」(1943年)には「…それで朝鮮では上流社会は漢字ばかりで綴った漢文を用ひて棒読にし、下流社会は諺文ばかりで文を綴っていたのである。」とある[26]。 1874年(明治7)、日本と朝鮮の外交文書[27]で、日本の漢字かな交じり文に相当する漢字・ハングル混淆文が用いられている。 公文書のハングル使用は、甲午改革の一環として1894年11月に公布された勅令1号公文式において、公文に国文(ハングル)を使用することを定めたことに始まった。 朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城旬報』(1883年)の続刊である『漢城周報』(1886年創刊)では、漢字混合文(通称「国漢混用文」)を基本とする一方、内容によっては漢文もしくはハングルのみによる朝鮮文で記述された。 『漢城周報』の特筆点は、ハングルで書かれた最初の新聞であったこととともに、「国漢文」と呼ばれる文体が採用されたことである。このような韓国式の「国漢文混用文」の原型となったのは、兪吉濬の《西遊見聞》(1895)とされている。しかしながら、国漢文は漢文の素養を必要とする文体であったため、一般に広く流布するには至らなかった。 1896年に創刊された『独立新聞』はハングルと英文による新聞であった。これは分かち書きを初めて導入した点でも注目される。ハングル分かち書きに大きく貢献した人物は、スコットランド人のジョーン・ロス(John Ross, 1842~1915)である。 1890年代後期に訪朝したイザベラ・バードは、その当時諺文(En-mun)と呼ばれていたハングルについて、いまだ知識層からは蔑視されてはいるが、1895年1月に漢文諺文混合文が官報に現れて以来、国王による独立宣誓文をはじめ、一部を除く公式文書に正式に採用され、諺文による書物も徐々に増えつつあると描写し[28]、今後、諺文による教科書と教師の育成が待たれるとしている[29]。また、上流階級の女性は諺文が読めるが、女性の識字率は極めて低く、1000人に2人であろうとする一方[30]、漢江沿いで出会った下層階級の男たちの多くは諺文が読めたと述べている[31]。 1905年韓国保護条約(第二次日韓協約)後、伊藤博文は自ら朝鮮半島に渡り、1906年初代韓国統監に就任。理想的に国家を立て直すため、まず「学校教育の充実」を最優先で実施。そのために、日本銀行から500万円を借欺し、そのうち50万円を教育の振興に充てた[32]。それにより、1906年に周時経が『大韓国語文法』を、1908年に『国語文典音学』を出版した。また崔光玉の『大韓文典』と兪吉濬の『大韓文典』(崔光玉の『大韓文典』と同名)、1909年に金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』などが出版された。
漢字・ハングル混淆文
大衆出版とハングル「朝鮮における漢字」、「日本統治時代の朝鮮」、および「ハングル学会」も参照