チューリヒ
[Wikipedia|▼Menu]
ゲルマン語では6世紀の段階で Ziurichi の形が見られるが、10世紀以降には Zurich に近い形に収斂していった[19]

広告などでは、チューリッヒは「スイスのダウンタウン」などと呼ばれることもある[20]
地理

チューリッヒは、アルプス山脈の北側 30キロメートル (19 mi)にあるチューリッヒ湖の北端に位置し、海抜は408 m (1,339 ft)である。森林に覆われた東西の丘陵地に周囲を囲まれている。旧市街はリマト川の両岸に開けている。リマト川はチューリッヒ湖から流れ出し、はじめは北側に向かって流れ、徐々に西に向きを変える。チューリッヒの地理的、歴史的な中心はリンデンホーフの丘(英語版)で、この丘は小さな自然の丘でリマト川の西岸にあり、リマト川の起点であるチューリッヒ湖から700 m (2,300 ft)北の地点に位置する。今日一体化した市街地は、ある程度丘陵地の自然の水路境界を超え北東部のグラット谷(英語版)(Glattal)や北部のリマト谷(英語版)(Limmattal)へ伸びている。旧市街の範囲はシャンツェングラーベン運河で容易に分かる。この人工的な運河は17-18世紀のチューリッヒ要塞(英語版)建築時に利用された。
地勢

チューリッヒ市の市域面積は91.88 km2 (35.48 sq mi)で、そのうちチューリッヒ湖の占める範囲は 4.1 km2 (1.6 sq mi) である。市域はスイス高原(英語版)に含まれている。リマト川の河岸は市街の密集地に続いている。川は南東・北西方向に向かい2-3kmの幅の平坦な谷間が広がる。部分的にリマト川の水路は開け真っ直ぐになるが、谷間の中央部は流れず常に右(北東)に沿って流れる。ズィル川(英語版)はリマト川とプラットシュピッツの端で合流しこの付近にはスイス国立博物館がある。リマト川は市内で一番海抜が低い地点であるオーバーエングストリンゲン(英語版)(392m)に達する。

リマト川流域の西側は森林の多いアルビス(英語版)の高台が続き、西側の境界に沿って続いている。ユトリベルクは海抜869 m (2,851 ft)で周辺部では一番高い地点で、ユトリベルク鉄道(英語版)で容易に頂上まで登ることが出来る。頂上のプラットホームの展望塔からは市街地や湖、アルプスなど印象的なパノラマを眺めることが出来る。リマト川流域の北東部には一連の丘が含まれ、リマト川とグラット川の分水嶺になっている。北東から南西にかけての大部分は樹木の茂った丘陵地が増え、グブリスト(615 m (2,018 ft))、ヘンガーベルク(541 m (1,775 ft))、ケーフェルベルク(英語版)(571 m (1,873 ft))、チューリッヒベルク (676 m (2,218 ft)) 、アトリスベルク(英語版)(701 m (2,300 ft))が含まれる。ケーフェスベルクとチューリッヒベルクの間にはミルヒブック(Milchbuck,約470m)の鞍部にはリマト谷からグラット谷への主要な道が配されている。市域北端はグラット谷の平野とグラット谷とフルト谷を結ぶ鞍部に及ぶ。また、カッツェン湖とビュジ湖(Busisee)共にカッツェンバッハによりグラットに流出し市内に属している。
気候

チューリッヒの気候は定義に応じて海洋性気候もしくは湿潤大陸性気候に分けられる。ケッペンの気候区分ではCfb/Dfbで四季がはっきりとしている。チューリッヒの気候の決め手は風向で、西風は降水をもたらし東または北東の風であるBiseは通常、高気圧の状態と結び付くが平均気温より低い冷涼な天気になる。フェーン現象はアルプス北側の谷では重要な役割を担い、チューリッヒには限られた影響を及ぼす。年平均気温は8.5℃で観測はスイス気象局(英語版)(海抜556mのチューリッヒベルク頂上と海抜150mの市中心部)により行われている。最寒月の1月の平均気温は?0.5℃で最暖月の平均気温は7月の17.6℃である。年平均88日程度は気温が0℃以下に下がり、26日程度は最高気温が0℃以下である。年間を通じて夏期の30日程度は気温が25℃以上になるが、30℃以上になるのは3日程度だけである。7月の最高気温の平均は23.6℃で、平均最低気温は11.6℃である。春や秋は通常、涼しく穏やかである。これらの値は台地上の観測点では比較的低くなるが、これは標高により説明出来る。リマト谷では夏日や真夏日がより多く予想される。チューリッヒは年間の日照時間が1,482時間で年間降水量は1,136mmになる。1年の半分は暖かく、特に夏の3ヶ月間の降水量は冬の観測よりも多くなる。クローテン観測所では年間降水量は1,031mmに達する。

チューリッヒ (クローテン, 1961?1990)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)2.0
(35.6)4.5
(40.1)8.8
(47.8)13.2
(55.8)17.9
(64.2)21.2
(70.2)23.6
(74.5)22.7
(72.9)19.5
(67.1)13.7
(56.7)7.0
(44.6)3.1
(37.6)13.1
(55.6)
平均最低気温 °C (°F)?4.1
(24.6)?3.2
(26.2)?0.7
(30.7)2.5
(36.5)6.4
(43.5)9.7
(49.5)11.6
(52.9)11.2
(52.2)8.5
(47.3)4.9
(40.8)0.2
(32.4)?2.8
(27)3.7
(38.7)
降水量 mm (inch)67
(2.64)68
(2.68)68
(2.68)78
(3.07)96
(3.78)115
(4.53)106
(4.17)121
(4.76)83
(3.27)70
(2.76)84
(3.31)74
(2.91)1,031
(40.59)
平均降水日数10.99.510.911.612.412.211.211.58.48.010.110.4127.1
湿度86.081.575.572.872.472.972.275.278.984.985.486.178.7
平均月間日照時間35691151441761912231951559249311,475
出典:MeteoSchweiz[21]

歴史
初期の歴史ローマ期のチューリッヒ

チューリッヒ湖周辺では新石器時代や青銅器時代の集落が発見されている。ローマ以前である、ラ・テーヌの集落もリンデンホーフの丘(英語版)の近くで発見されている。ローマ・ガリア(英語版)の時代、トゥリクム Turicum はガリア・ベルギカ(90年からはゲルマニア・スペリオル)とラエティアの国境としてリマト川を行き来する交易の税関であった。後に318年に皇帝コンスタンティヌス1世の改革により、ガリアとイタリア(ローマ帝国の行政区画の4つのうちの2つ)の間の国境はトゥリクムの東に位置しヴァレン湖チューリッヒ湖の間のリント川(英語版)を横切っており、城や駐屯部隊はトゥリクムの安全を見守っていた。初期に書かれた記録では街の歴史は2世紀からでリンデンホーフで発見された墓石が示している。

5世紀にゲルマン人の部族連合アラマンニ人がスイス高原(英語版)に定住するようになった。ローマの城塞はカロリング朝に入ると、カール大帝の孫であるルートヴィヒ2世により王宮に改造された。853年にこのルートヴィヒ2世(東フランク王)によって娘のヒルデガルト(Hildegard)のために女子修道院「フラウミュンスター」(en:Fraumunster)が設立されたとする文書がこの都市に言及する最初の記録である[22]。 彼はこのベネディクト会の女子修道院にチューリッヒとウーリの地、さらにアルビス(英語版)の森を寄進し、修道院を直接統治することによって修道院の独立性を保証した。1045年、ハインリヒ3世は修道院に対し、市場開設、通行税徴収、貨幣鋳造などの権利を与え、修道院長は実質的にこの都市の支配者となった[23]10世紀レンツブルク(Lenzburg)伯爵家が教会守護職(Reichsvogtei)を務めていたが、11世紀に入ると、この職はツェーリンゲン家の手に移った[24]

1218年ツェーリンゲン家の消滅とともにチューリッヒは「帝国直属都市」(Reichsunmittelbar、en:imperial immediacy)となった[24]。1230年代、38ヘクタールを囲む城壁が築かれレンヴェーク(英語版)(Rennweg)の上の初期の石造の建物も築かれた。カロリングの城は荒れ果て始め、石切り場として使われていた[25]フリードリヒ2世は1234年に女子修道院「フラウミュンスター」の院長の地位を公爵に格上げした。修道院院長は市長を任命し、彼女は街の市民に硬貨の鋳造をしばしば委任した。14世紀には修道院の政治的な力は徐々に衰え、小商人、手工業者などによる自治運動が高まり、1336年にルドルフ・ブルン(英語版)によりツンフト(ギルド)(Zunftordnung)が組織され、彼は最初の修道院長によって任命されない独立した市長となり平民も自治に参加する様になった。「1300年頃のチューリヒの人口は5000人程度だった」(寺田龍男)[26]

14世紀前半の重要な出来事はマネッセ写本の完成で、これは中世盛期ドイツ抒情詩を伝える最大かつ最良の資料である。この有名な装飾写本は「最も美しいドイツ語の写本」と称賛されている[27]。写本はチューリッヒのマネッセ家の依頼により、1280年頃から1330年頃の間に筆写され、挿絵(詩人の肖像画)が施されたとされている。このような豪華な写本を作り上げるには、膨大な詩作品の収集編纂作業と高度に熟練した写字生と腕の立つ挿絵画家の何年もの作業を必要とし[28]、非常に贅沢で威信のかかった一大事業で、それは明らかにこの時代に増大したチューリッヒ市民の富と名誉を証明している。
スイス原初同盟古チューリッヒ戦争の一場面

1351年5月1日、チューリッヒ市民(imperial immediacy)はルツェルンシュヴィーツウーリウンターヴァルデンのスイス原初同盟(ドイツ語版、英語版)(Eidgenossenschaft)のメンバーに忠誠を誓わなければならなかった。チューリッヒは同盟の5番目のメンバーとなり、この時点で同盟は事実上緩やかな独立国の連合であった。チューリッヒは1468年から1519年までカントンの議会の主宰を務めていた。この機関は中世からスイス連邦が成立する1848年まで同盟の立法と法の執行機関であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef