チューリップ_(バンド)
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財津らは一度福岡に戻ったのち、他バンドからメンバーを引き抜くが、海援隊から上田雅利を引き抜いたのを最後に、5人のメンバー(財津(ボーカル、ギター、キーボード)、姫野達也(ボーカル、ギター、キーボード)、安部俊幸(ギター。安部を引き抜きにきた現場で「私の小さな人生」が書き下ろされたことを、後に安部自身が述べている)、上田(ドラムス)、吉田(ベース))で本格的に活動を開始する。

1972年に改めて上京。当時の所属事務所シンコー・ミュージック初の専属アーティストとして東芝音楽工業(後の東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン、現:ユニバーサルミュージック)から「魔法の黄色い靴」でメジャー・デビュー。翌1973年に出した3枚目のシングル「心の旅」が5か月かけてレコード売上1位を記録し、一躍有名となる。その後も「青春の影」(1974年)、「サボテンの花」(1975年)、「虹とスニーカーの頃」(1979年)など数々の作品を輩出。その名を不動のものとする。第1期の特徴は「風のメロディ」(1976年)など財津と姫野のツインボーカル楽曲を用意していた点である。この他に、姫野と安部のツインボーカル楽曲もシングルB面やアルバムで取り上げられていた。1978年には財津がソロ・デビューし、チューリップのライブで財津のソロナンバーが披露されるようになった。
第二期、第三期、そして一旦解散

1979年のアルバム『Someday Somewhere』を以て、上田・吉田が脱退。上田は新たに自分のバンドTonyを結成し、吉田は音楽界から身を引いて珈琲店経営に専念する。同アルバムを以て安部はボーカルを取らなくなり、作曲と演奏に専念する。

財津は新たに宮城伸一郎 (b)、伊藤薫 (ds) を迎え、チューリップ第2期に入る。第1期のブリティッシュビートを基調とした楽曲から転換し、シンセサイザー、デジタル機器を多用して宇宙平和環境問題などをテーマにしたポップで壮大なサウンドを構築するが、1970年代とは一転してセールスは低迷する。1982年に通算で1000回目のライブを達成。

1984年、東芝EMIプロデューサーの新田が独立して設立したファンハウスへ移籍。しかし、1985年夏に姫野・安部・伊藤がシングル「アイ・アイ・アイ」のリリースを最後に脱退(正式な発表は翌1986年)、オールウェイズを結成した。これにより、オリジナルメンバーは財津を残すだけとなった。現在に至るまで、脱退の経緯について財津は「わだかまりがあった」とのみ語り[3]、他のメンバーも多くを語っていないため不明な点が多いが、姫野は「財津の変化していく音楽性が自分の音楽の志向とかけ離れてしまったから」と発言し[4]、2023年8月31日放送された『NHK MUSIC SPECIAL ?TULIP 50周年記念ツアー 50年の軌跡?』の中で財津が「未来永劫へ続くようなそういうバンドにしていかなきゃいけないっていう、そんな脅迫が生まれてきてバンドは分裂したような形になったし、それを受け入れていくしかないとは思ってましたけれどちょっとつらかった」と初めて語った。窮地に陥った財津は、残ったメンバー宮城、新メンバーの松本淳 (ds) と共に、数人のサポートメンバーや、財津自身の多重録音などにより、アルバム『I Like Party』を完成させた(財津はこれを2.5期と呼んでいる)。一方、3人の脱退は当初は明らかにされず、同年夏に丹野義昭 (kb) を加えた新メンバーでの同名ツアーの開始直前に、一部のメディアのみに公表されたため、ファンの反発を招くこととなった。

その後、チューリップは第3期に入る。1986年日本コロムビアトライアドへ移籍。翌1987年4月に高橋裕幸 (kb) が加入するが、7月に松本が渡辺美里のサポートメンバーに専念するため脱退。ギタリスト及び1987年7月以降はドラマーも不在になり、サポートメンバー数人を加えたが、キーボードと打ち込み主体の1980年代的なシティ・ポップへサウンドは大きく変化した。結局主要メンバーが抜けた穴は回復できずセールスは低迷し、姫野がボーカルを取っていた曲をライブで封印したこともあり、かつて全国で展開していたライブの回数も激減した。

1988年、アルバム『そんなとき女を好きになる』で上田が8年ぶりにサポートとして1曲のみ参加。しかし、状況は変わらず、財津はついにバンドの解散を決断する。

1989年、当時のラスト・アルバム『Well』をリリース。クレジットに安部・姫野への謝辞があり、二人が何らかの形で参加したとされる。二人が参加した同名全国ツアー(計26回、ライブアルバムも発売)を開始。そして、7月8日、全国ツアーの最終日。中野サンプラザでラストライブを開催し一旦解散。財津は本格的なソロ活動に突入する。
再結成

1989年の一旦解散以降、財津は最早チューリップの再結成は不可能だと考えていたが、1995年ビートルズが「フリー・アズ・ア・バード」をリリースしたことに触発された姫野が声をかけたことで、再結成を決断した[3]

1997年、レコード会社をビクターエンタテインメントに移籍。吉田を除くオリジナルメンバー4人(財津・姫野・安部・上田)及び2期からのメンバー宮城の5人で再結成。以降、積極的なライブ活動を展開、往年のファンを動員する。以後10年の間に4度の再結成を行う。ライブで演奏する曲目は、新曲の他は初期・第2期の『New Tune』まで。今回の再結成でほぼオリジナルメンバーに戻ったため第2期の末期(『I Like Party』以降)及び第3期は事実上封印されている[注釈 2]


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