チューリップ・バブル
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これら当時の新品種のほとんどは現在では絶滅している[26]

需要の増加に際しバブル期以前から、変異種の価格は緩やかに上昇していった[27]

チューリップは球根から育つ植物であり、種からでも子球からでも増やすことができる。花を咲かせることができる球根を種から作るには、7年から12年かかる[21]。そのため、チューリップの種には値上がりをほとんど見せることはなかった[27]。球根から花を咲かせると、もとの球根(親球)は消滅してしまうが、同じ場所に1個または複数個のクローンの球根(子球)ができる。適切に育てれば、これらの子球はそれぞれが球根になる。モザイクウイルスは子球のみが感染し、種は感染しないため、最も人気のある品種を栽培するのには時間がかかることとなる。また、ウイルスにより、チューリップの球根は劣化してしまう[21]北半球では、チューリップは4月または5月に約1週間にわたって咲く。北半球におけるチューリップの休眠期である6月から9月にかけての間に、球根を収穫し運搬することができるため、(スポット市場における)球根の現物取引はこの期間に行われていた[28]。ほかの期間は、花屋やチューリップ投資家らは、期間の終わりにチューリップ球根を購入できるよう、公証人の前で契約書に署名をしていた(先物取引[28]。このように、オランダ人は近代の金融取引の方法を開発し、耐久消費財としてのチューリップ球根の市場を形成した[16]。1610年の政令により空売りは禁止され、1621年、1630年および1636年にも同じ命令が出され規制が強化された。空売りを行っても訴追されることはなかったが、契約は執行不能なものとされた[29]アール・トンプソン(Earl Thompson)によって作成された、チューリップ球根の取引契約における、標準化された価格指数のグラフ。トンプソンは2月9日から5月1日の間の価格データを持っていなかったため、この間どのように価格が下落したかは不明である。しかし、チューリップ市場が2月に突然暴落したことは知られている[30]

チューリップの人気が高まったため、職業栽培家はウイルスに感染した球根に対し一層高い価格を支払うようになり、価格は上昇し続けた。1634年までに、フランスにおいても需要が高まったこともあり、投機のために投資家がチューリップ市場での取引を開始した[31]。珍しい球根の価格は1636年を通じて上昇し続けたが、11月までには、単色の一般的なチューリップ球根の価格までも上がり始め、すぐに、チューリップ球根であれば何であっても数百ギルダーで取引されるようになった。この年に、オランダでは、季節の終わりに球根を売り買いするための公式な一種の先物市場が形成された。投資家らは、居酒屋の「college」で会い、球根を買う場合には取引価格の2.5%から取引あたり3ギルダーを上限とする「ワイン代」を支払う必要があった。売り手も買い手も、当初証拠金や変動証拠金を支払う必要はなく、取引も取引所ではなく個人の相対取引で行われていた。オランダ人は、球根の引き渡しが実際には行われないことから、チューリップ球根取引を「windhandel(風の取引)」と呼んでいた。取引は取引所ではなくオランダ人の経済生活におけるマージンにより達成されていた[32]

1636年までに、チューリップ球根はオランダにとって、ジンニシンチーズに次いで4番目に取引高の大きな輸出品となった。チューリップ球根の価格は、球根を実際に見たこともない投資家らによる先物取引での投機のために跳ね上がった。多くの者が、一夜のうちに多額の財産を築いたり失ったりした[33]『Wagon of Fools(愚か者の車)』(ヘンドリク・ヘリッツゾーン・ポト画、1637年)。織機を放棄したハールレムの織物工らが車の後ろをついて歩いている。風に吹かれ、チューリップを派手に描いた旗がたなびく中、花の女神フローラは腕にチューリップの花を抱え、酔っ払い、両替商および二つの顔を持つ女神フォルトゥーナとともに、車に乗って海への墜落へと向かっている。

チューリップ・バブルは1636年から1637年の冬にピークを迎え、この時には1日に10回も取引された球根もあるほどであった。しかし、これらの契約を履行するための球根の引き渡しは行われなかった。1637年2月、チューリップ球根の価格が急落し、チューリップの貿易が停止したためである[34]。価格の急落はまずハールレムで起こり、買い手が定期的な球根の取引に現れなくなった。これは、ハールレムがペストの大流行のさなかにあったことが原因である可能性がある。ペストの流行により、投機を急拡大させるような、宿命論的なリスク選好文化が形成されたかもしれないが、他方それはバブルの崩壊の原因ともなった可能性がある[35]
利用可能な価格データ

1630年代において継続的に記録された価格データが存在しないため、チューリップ・バブルがどの程度のものであったかを推定することは困難である。利用可能なデータの大半は、バブルの直後に書かれたGaergoedt and Warmondt(GW)による反投機的な小冊子からのものである。経済学者のピーター・ガーバー(Peter Garber)は、1633年から1637年の間の39品種におよぶ161個の球根の販売に関するデータを収集した。そのうち53個のデータは、GWによって記録されたものであった。1637年2月5日の、チューリップ・バブル最後の日には、88回の取引が行われたと記録されている。球根の販売は、「college」での先物取引、栽培家による現物取引、栽培家による公証人を関与させた先物取引、不動産取引といったいくつかの市場メカニズムを用いて行われた。ガーバーは、「利用可能な価格データは、大部分がリンゴとオレンジ(本来比較できないものの意)の混ざりあったものである」としている[36]

Viceroyの球根1個と交換されたといわれている財産[注釈 1]
小麦2ラスト448ギルダー
ライ麦4ラスト558ギルダー
肥えた牡牛4頭480ギルダー
肥えた豚8頭240ギルダー
肥えた羊12頭120ギルダー
ワイン2ホッグスヘッド70ギルダー
ビール2タン[注釈 2]32ギルダー
バター2タン192ギルダー
チーズ1,000ポンド120ギルダー
ベッド(完成品)1台100ギルダー


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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