チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: ????????? ????????)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東・東にはイタリア領土のパンテッレリーア島やランペドゥーザ島、シチリア島がある。地中海の島国マルタとも近い。首都はチュニス[3]。 アフリカ世界
概要
同国は歴史上、最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来にもなった地域である。 正式名称は、????????? ????????(ラテン文字転写 : al-Jumh?r?ya at-T?nis?ya、片仮名転写 : アル・ジュムフーリーヤ・ッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、????(T?nis)。 日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。 アラビア語名のتونس(T?nis、トゥーニス)は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes)で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus に地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年ごろにはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。 現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa ハフス朝は1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方
国名
歴史詳細は「チュニジアの歴史」を参照
古代
ローマ統治期
イスラーム諸帝国期イフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった(チュニス征服 (1535年))。詳細は「オスマン時代のチュニジアの歴史(英語版)」を参照
オスマン帝国統治期
フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(チュニジアの憲法(英語版))が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約
フランス植民地期