チュニジア
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

なお首相には、2021年10月、アラブ・マグリブ・チュニジアのすべてで初の女性首相であるナジュラ・ブデンが就任している[9]
政治チュニジア議会詳細は「チュニジアの政治(アラビア語版、英語版)」を参照

チュニジアの政体共和制大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法2022年8月16日に施行されたもの。
元首・行政「チュニジアの大統領」および「チュニジアの首相」も参照

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相閣僚・各県の知事の任免権、チュニジア軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。
立法

立法府一院制人民議会のみで構成されている。定数は217議席で、議員の任期は5年。

2011年ジャスミン革命以前は、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)の両院制で構成されていた。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。
政党「チュニジアの政党」も参照

1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の総選挙でナフダ(アンナハダ)が与党となったが、2023年4月に当時の党首が拘束されるとともに、治安当局により党本部が閉鎖された[10]。その後の有力政党として、大統領のカイス・サイードを支持する7月25日運動が挙げられる。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。

過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。
司法

司法権は最高裁判所が担っている。
国際関係詳細は「チュニジアの国際関係(アラビア語版、英語版)」を参照

独立直後から暫くはフランス軍ビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がエジプトの首都カイロからチュニスに移転し、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。

1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。

パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転。1985年にはPLOと対立するイスラエルの空軍による爆撃を受けた(木の脚作戦)。オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを国家承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。
日本との関係詳細は「日本とチュニジアの関係」を参照

在留日本人数 - 136名(2018年10月,在留邦人統計)[11]在日チュニジア人数 - 907名(2019年12月,在留外国人統計)[11]

2017年、元明治大学生の高橋佑規がチュニジアのバラエティ番組に出場しコントを披露したところ、評判となり、多数の番組に出演。アジア人の象徴的呼称がジャッキー・チェンから高橋に変化するほどの社会現象を引き起こした[12]

駐日チュニジア大使館
詳細は「駐日チュニジア大使館」を参照

住所:東京都千代田区九段南三丁目6-6

アクセス:JR総武線東京メトロ南北線有楽町線都営新宿線市ケ谷駅A3出口、または東京メトロ東西線半蔵門線九段下駅2番出口


チュニジア大使館全景

チュニジア大使館プレート

両国友好のディスプレイ

国家安全保障詳細は「チュニジア軍」を参照

チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。

兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている[13][14]
地理詳細は「チュニジアの地理(アラビア語版、英語版)」を参照チュニジアの地図チュニジア北部の平原メジェルダ川チュニジア南部のサハラ砂漠

国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である[15]。東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。

国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾ハンマメット湾ガベス湾と並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した[16]。その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:142 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef