チュニジアが衰退する中、イスラームの勢力圏だったシチリア島はキリスト教徒のノルマン人によって奪還され、ズィール朝は1140年にシチリア王国の属国となり、1148年に滅ぼされた。ズィール朝の滅亡後、イフリーキヤはモロッコから勢力を伸ばしたムワッヒド朝の征服下に置かれた。
ハフス朝時代(1229年-1574年)詳細は「ハフス朝」を参照第8回十字軍によるチュニスの包囲。チュニスが生んだ大哲学者、イブン=ハルドゥーンの像。
1229年にムワッヒド朝の統治からチュニス総督だったハフス家のヤフヤーが独立し、ハフス朝が成立した。ハフス朝成立以来、チュニジアの中心はカイラワーンからチュニスへと移った。初期のハフス朝はシチリア王国を統治していた神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と友好関係を結び、ジェノヴァやバルセロナ、ヴェネツィアの商人との通商関係を築いた。ローマ教皇とアンジュー伯シャルルによってホーエンシュタウフェン朝が滅亡すると、シャルルはシチリアの支配を盤石にし、地中海帝国構想を実現するために兄のルイ9世にチュニジアへの十字軍を要請した。1270年の第8回十字軍では、カペー朝フランス王国の聖王ルイがチュニジアに侵攻したが、ルイ9世は病死し、スルタンムンタスィルによって十字軍は撃退された。
西はアルジェにまで至る領域を支配したハフス朝だったが、14世紀に入るとハフス朝内で諸勢力が分立し、1347年にはモロッコのマリーン朝にチュニスを奪われるにまで弱体化が進んだ。1370年に即位したアブー・アッバース・アフマド2世はハフス朝の再統一事業を行い、1394年に即位したアブー=ファーリスによってハフス朝は再び北アフリカの強国となった。1492年にレコンキスタによってスペインがナスル朝グラナダ王国を滅ぼすと、北アフリカ一帯に亡命アンダルシア人が流入し、チュニジアにもアンダルシアのムスリムやユダヤ人(セファルディム)が定着した。16世紀に入ると領内の分裂が加速した。同じ頃にトレムセンのザイヤーン朝がスペインの攻撃によって弱体化すると、1533年にアルジェを支配していたバルバリア海賊のバルバロス・ハイレッディンはオスマン帝国に臣従した。1534年にはオスマン帝国軍によってチュニスが攻略され、アルジェリア方面から攻撃を開始したオスマン帝国からの防衛のために、スルタンのハサンは神聖ローマ皇帝カール5世に援軍を頼み、1535年にスペイン軍がチュニスを攻略し、ハサンの復位と共にハフス朝はスペインの保護国となった。しかし、オスマン帝国の勢いは止まらず、1550年にトレムセンが陥落し、ザイヤーン朝が滅亡し、1574年にはオスマン帝国のスィナン・パシャによってチュニスが陥落し、ハフス朝も滅亡した。
ハフス朝の統治下では『歴史序説』を著した歴史家イブン・ハルドゥーンなど優れた学者が現れ、チュニスは北アフリカの学問の中心地として栄えた。
オスマン帝国属領時代(1574年-1705年)詳細は「ムラード朝(英語版)」を参照
1574年にハフス朝は滅亡し、チュニジアはオスマン帝国の属領となった。当初オスマン帝国は「デイ」(パシャ)と呼ばれる軍司令官をチュニジアに派遣したが、オスマン帝国の弱体化が進む中で、「ベイ」を名乗るトルコ系の軍人たちはパシャから権力を奪取し、イスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになった。ベイの地位は世襲化され、1613年にムラード朝(英語版)が成立した。
こうして成立した王朝はオスマン帝国に貢納を支払い、形式的にオスマン帝国のスルタンにベイの称号を受けた。この時期にほぼ現在のチュニジアの領域が確立した。内政面ではトルコ系の軍人が重用され、土着民は政治から遠ざけられた。17世紀初頭にスペインでモリスコの追放が進んだため、チュニスは多くのモリスコを受け入れ、8万人以上のモリスコがチュニスに居住するようになった[6] 。マグリブではマーリク派が優越していたが、オスマン帝国の公式法学はハナフィー派だったため、ハナフィー派のモスクの建設が進んだ。外交面ではチュニスはオスマン帝国から実質的に独立していた[7] 。さらにこの時代にチュニスはアルジェと共に北アフリカのバルバリア海賊の大拠点となり、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国はフサイン朝が衰退する19世紀半ばまで、自国の船舶の安全を確保するためにチュニスのベイに貢納を行った[8]。
フサイン朝時代(1705年-1881年)
チュニジアの近代化詳細は「フサイン朝」を参照チュニスのベイの旗。ハイルディーン・パシャ。
1705年にムラード朝が滅亡すると、同年フサイン朝が成立し、フランス統治時代を挟んで252年間に亘り統治を行った。
1824年に即位したフサイン2世は、1831年にチュニジアの国旗を制定した。
19世紀前半より東から1835年に当地で自立していたカラマンリー朝リビアを再征服したオスマン帝国の圧力が強まり、西からは1847年にアルジェリアを征服したフランスの圧力が強まる中で、チュニジアは独立を維持するために、エジプトのムハンマド・アリー改革やオスマン帝国のタンジマートに倣った富国強兵政策などの近代化政策を図った。
1837年に即位したアフマド・ベイは中央集権化を進めると共に、税制改革、徴兵制の導入、服装のヨーロッパ化、士官学校の建設、ザイトゥーナ大学(737年創設)の改革、常備軍の新設、国立工場の建設、フランス人軍事顧問団の受け入れなど富国強兵政策を実現した。また、1846年に奴隷輸入の禁止も実現され、フランスよりも早かった奴隷制廃止の実現は、フランスの奴隷制廃止論者であり、後に第二共和政下で奴隷制廃止を実現したヴィクトル・シュルシェールに大きな影響を与えた[9]。
近代化=西欧化政策はアフマド・ベイの没後も続き、1859年に即位したサドク・ベイの時代には西欧化推進派の官僚だったハイルディーン・パシャが主導権を握り、フランス領事のレオン・ロッシュの助言を経て近代化=西欧化が進められた。