チャールズ3世(チャールズさんせい、Charles III 、1948年11月14日 - )はイギリスのウィンザー朝第5代国王(在位: 2022年9月8日 - )、その他14か国の英連邦王国及び王室属領・海外領土の君主。イングランド国教会の首長(英語版)。全名はチャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ(Charles Philip Arthur George)。日本語では「チャールズ国王(チャールズこくおう)」と表現される場合が多い。
エリザベス2世の在位中は、長らく皇太子(第21代プリンス・オブ・ウェールズ)であった。イギリス陸海空軍元帥[2]。公邸はクラレンス・ハウス。
弟は、ヨーク公爵アンドルー王子、エディンバラ公爵エドワード王子。妹は、プリンセス・ロイヤル・アン。ジョージ5世の曾孫、エドワード7世の玄孫、ヴィクトリア女王の来孫、ジョージ3世の仍孫、プリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスの雲孫である。 エディンバラ公フィリップと同公爵夫人エリザベス王女(いずれも当時)の(3男1女のうち)第一子・長男としてバッキンガム宮殿にて1948年11月14日に誕生。12月15日には宮殿内で洗礼を受けた。「国王の女系/母系子孫は王子・王女の称号を与えられない」というのがイギリス王室の原則であったが、チャールズの場合は次期女王の長男であり将来国王になることが確実であったため、ジョージ6世国王は自身の初孫でもあったチャールズを王子とする勅令を出した。 また、誕生時の姓は「ウィンザー (Windsor)」だったが、1960年に母のエリザベス2世女王は、父のエディンバラ公爵フィリップ王配との間に誕生した子の姓を「マウントバッテン=ウィンザー[3]」とする枢密院令を出した。 祖父・ジョージ6世国王が1952年2月6日に崩御し、同日に母・エリザベス王女が即位してイギリス女王(エリザベス2世)になると、第一王子チャールズは法定推定相続人として王位継承順位が1位となり、それに付随して、「コーンウォール公爵」ならびに「ロスシー公爵」の称号を得た。1958年には、女王エリザベス2世からガーター勲章が授与され、「チェスター伯爵」と「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を得ることにより、立太子された。 幼少時から将来のイギリス国王となるべく、父フィリップの意向で厳しい教育を受けた。特に「息子にも自身の母校に通わせたい」という父の勧めでバークシャーのグラマースクールやスコットランドのゴードンストウン校で、中産階級の児童らと就学したことが多かったが、当然の事ながら階級社会のイギリスにおいてチャールズと同一階層の生徒が一人もいなかったため、いじめやからかいの対象になってしまった。この経験が原因で、自分が父親となったときは2人の息子、ウィリアム王子とヘンリー王子を上流階級が多数を占めるイートン・カレッジに通学させたとも言われている。 1966年にはオーストラリアのジーロン・グラマー・スクールに2学期ほど留学し、後にオーストラリアでの思い出が一番だったとの振り返りをしている。 1966年には、アストンマーティンの工場を訪問した母女王より同社の「DB6 ヴォランテ」を誕生日プレゼントに贈られた。その後も同社のモデルを愛用し、後に同社にワラントを下賜している。 1967年10月に、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。在学2年目には、ウェールズ語と歴史を学習するためにウェールズ大学に入学している。1968年には21歳で皇太子としての叙任式を行った。1970年にはイギリス議会上院の貴族院に議席を得ている。 ケンブリッジ大学への入学後に、イギリス王室の習慣に則りイギリス海軍とイギリス空軍に入隊した。1971年3月以降に、イギリス海軍のデ・ハビランド・カナダ DHC-1とBAC ジェット・プロヴォストでの飛行訓練を経て、小型ターボプロップ機のホーカー・シドレー・アンドーヴァーや、王室専用機で中型ジェット輸送機のBAe 146の操縦も行っている。 この頃より国内の貧困問題解決にも取り組んでおり、1976年には、イギリスの貧困層の若年者に対する学業の機会や職業訓練を与えることを目的に活動する「ザ・プリンス・トラスト」を立ち上げた。
経歴
生誕
王位継承者幼少期のチャールズ(右端)と両親、妹のアン王女との家族写真(1957年)
教育
青年時代
軍歴ノルウェー訪問時(1969年)スペイン訪問時(1973年)
慈善事業と環境問題