1660年12月に仮議会は解散、翌1661年4月23日にウェストミンスター寺院でチャールズ2世は正式に戴冠式を挙行、同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は王殺しの罪で絞首刑に処されたのち、その首は晒しものとされた。5月8日に議会が召集され、「騎士議会」(1661年5月8日 - 1679年1月24日)と呼ばれる議会が治世の大半に開かれることになった[4]。 1661年の婚姻条約により、1662年、ポルトガルのブラガンサ王朝の初代国王となったジョアン4世の王女カタリナ(キャサリン・オブ・ブラガンザ)と結婚した。カタリナはインドのボンベイ(ムンバイ)や北アフリカのタンジールを持参金とした。このため、これらの領土はイングランド領となる。カタリナはカトリックでプロテスタントのイングランド国教会の儀式には参列しなかったので、イングランドでは人気がなかった。チャールズ2世との間に子は生まれなかったので、後継者は弟のヨーク公ジェームズと目されるようになった。 チャールズ2世には結婚前からシャティヨン公爵夫人イザベル・ド・アンジェリク、ルーシー・ウォルター、エリザベス・キリグリュー、キャサリン・ペッグ
結婚
なお、あまりの艶福家だった王を見かねた殿医のドクター・コンドームが王のために牛の腸膜を使った避妊具を開発したのがコンドームの始まりというのは、広く普及した俗説で、そうした医師が存在したことを示す史料はなく、コンドームの原型もチャールズ2世の時代から約100年前に既に存在している。 チャールズ2世期のイングランド議会(騎士議会)は、王党派が主導権を終始握り続けた長期間にわたる体制下にあった。しかし、騎士議会はチャールズ2世を終始支持したものの、財政問題や対フランス外交を巡って国王と議会の間の意見対立が次第に深刻化して、後の名誉革命の遠因となった。また、議会とは別にクラレンドン伯が政権を取り仕切った。 1661年に議会は常備軍を解散させたが、国王警備など一定の範囲で存続と再軍備は認められ、連隊が次々と創設された。しかし宗教問題で議会は寛容を認めず、1661年から1665年にかけて非国教徒を弾圧する一連の法案(クラレンドン法典)が議会で可決され、1662年のチャールズ2世の信仰自由宣言
治世
クラレンドン政権
オランダとの間に第二次英蘭戦争(英語版)(1665年 - 1667年)が起こり、ブレダの和約によってオランダの北アメリカ植民地ニューアムステルダム(現在のニューヨーク州)がイングランド領となった。しかし、この戦争中にペストが流行したり(1665年)、ロンドン大火が発生し(1666年)、1667年にオランダ艦隊がロンドンに近いテムズ川やメドウェイ川河口に侵入して沿岸の町々を砲撃した(メドウェイ川襲撃)結果、財政は常に火の車であり、政府借入と返済のための炉税の徴収を巡って議会やシティとの紛糾が絶えなかった。
CABAL政権「Cabal」も参照
1667年に英蘭戦争と災害の責任を取らされクラレンドン伯が失脚しフランスへ亡命した後、5人の側近(クリフォード男爵、アーリントン伯、バッキンガム公、アントニー・シャフツベリ伯、ローダーデイル公)が政権を担った。