チャールズ・ワトソン=ウェントワース_(第2代ロッキンガム侯)
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ビュート伯爵は権謀術数でニューカッスル公爵派が野党として団結することを阻止しようと図ったが、それに反発するニューカッスル公爵派の議員たちは、1762年12月23日にニューカッスル公爵の甥のオンズローの家で定期的な会合を行うことを決めた。しかしニューカッスル公爵自身は反対したため、議長にはロッキンガム侯爵が据えられた。歴史家の多くはこの時がロッキンガム侯爵派ホイッグ党の誕生と評価している[6]
第一次ロッキンガム侯爵内閣

1765年に摂政法制定をめぐって首相ジョージ・グレンヴィルと国王ジョージ3世が対立し、グレンヴィル更迭を決意したジョージ3世は叔父カンバーランド公にグレンヴィルを排除した内閣を組閣できるよう与野党に手回ししてほしいと頼み、その意を受けたカンバーランド公はロッキンガム侯爵と大ピットに協力を要請したが、大ピットは協力を拒否したので、結局1765年7月にロッキンガム侯爵が組閣の大命を受けることになった(第一次ロッキンガム侯爵内閣[2][5]

内閣発足当初は組閣の第一の功労者であるカンバーランド公の影響力が強かったが、1765年10月にカンバーランド公が薨去したため、以降はロッキンガム侯爵の主導権が確立された[5][7]。またロッキンガム侯爵の派閥の長であるニューカッスル公爵はすでに70過ぎだったため、政府要職への就任を避け、王璽尚書として入閣していた。そのためこの頃から派閥の実権もニューカッスル公爵からロッキンガム侯爵へと移っていった[8]

彼の内閣は1年しか持たなかったが、その短い間にも自由主義的内閣改革や植民地人の主張に一定の理解を示した政策・改革を行った。

グレンヴィル前政権期に国王ジョージ3世とグレンヴィル首相がジョージ3世の勅語を批判したウィルクスを「一般逮捕状(人物を特定しない逮捕令状)」で逮捕して言論弾圧を行った問題では、「一般逮捕状」の違法性を議会で決議させることで国王やグレンヴィル前政権の強権政治を否定するという自由主義的立場を示した[8]

この頃、植民地アメリカでは印紙法反対運動とイギリス製品ボイコット運動が盛り上がっており、7年戦争後の不況に苦しんでいたイギリス商人たちの間でも、ボイコットを恐れて印紙法に反対する者が増えていた。1766年1月にはロンドンブリストルなどアメリカとの貿易を重視する都市20以上から印紙法廃止を要求する請願書が庶民院に提出され、政府も立場をはっきりする必要に迫られた。ロッキンガム派は商人との繋がりが強い派閥だったのでロッキンガム侯爵も印紙法廃止に前向きだったものの、議会や宮廷には対植民地強硬派も多かったため、両方の意見を折衷する形で1766年3月に印紙法廃止法案と宣言法(議会の植民地に対する統治権を宣言した法案)をセットで議会に提出して可決させた[9]

しかしこの措置は国王ジョージ3世からも植民地人からも支持されず、また議会内でもグレンヴィル前政権の政策に反対することでは一致していたはずの大ピット派からも支持を得られなかったため、より安定した内閣を求めるジョージ3世の意向で1766年7月末に更迭され、代わって大ピットが組閣の大命を受けた[10]
政党政治と民主主義の発展

これ以降ロッキンガム派はこれまでの半与党的野党の立場ではなく、明確に野党の立場に立つようになった。また野党系「独立派」議員も多数ロッキンガム派に合流し始めた。これによってホイッグ党ロッキンガム派は強力な団結力を持つ巨大野党と化していった。ウォルポール以来の「ホイッグの優越」時代は新しい局面に入り、優越的地位にあるホイッグ党内で与野党に分かれて対立・論争が行われるようになった。これが与野党対立の現代的な政党政治の幕開けであった[11]

ロッキンガム侯爵の側近である理論家エドマンド・バークの主導のもとロッキンガム派は「国王が『国王の友』と呼ばれる議員を用いて議会に不当な影響力を及ぼそうとしている。これを防ぐためには我々は政党として団結するしかない」という独自の政治理論を立てて政党としての団結力を高めていった[12]

一方、議会外のウィルクス支援運動は金権政治の温床となっていた腐敗選挙区(中世以来の都市選挙区で人口減少により選挙区の体をなさなくなった選挙区。選挙区民の人数が少ないので買収しやすい)の削減など議会改革運動に発展していた。ロッキンガム侯爵自身は大貴族なので議会改革には慎重だったものの、反政府という共通の立場からロッキンガム派はウィルクス運動とも連携をとるようになった[13]
野党活動

ロッキンガム派の野党活動とウィルクス運動の盛り上がりで1770年1月にはグラフトン公爵内閣の中からも野党に同調する造反閣僚が出て内閣は分裂して総辞職を余儀なくされ、代わってノース卿フレデリック・ノースが新たな首相となった[14]

ロッキンガム派はノース卿内閣に対しても徹底抗戦の立場を取ったが、1770年から1771年にかけて野党は弱体化した。同じく野党になっていた大ピット派と意見がかみ合わず連携が取れなかったためであった(大ピット派は国王を批判せず、州選出議員の増加を目指したのに対し、ロッキンガム派は国王の影響力に政治腐敗の原因を求めた)。議会外のウィルクス運動も同時期に内部分裂を起こして下火になりはじめた。1771年春には庶民院議場で大ピット派の議員とロッキンガム派の議員の乱闘事件が起こり、両派の確執は決定的となり、野党大団結の目は無くなった。これが結果的にノース卿内閣の長期安定政権樹立につながった[15]

しかしロッキンガム侯爵派が野党活動を緩めることはなく、ノース卿内閣を王党派という意味で「トーリー党」と呼んで批判し、同政権への協力を一切拒否した[16]。特に1773年にノース卿内閣がアイルランド不在地主に課税しようとした際にはアイルランド大地主ロッキンガム侯爵は激怒し、強力に反対してその計画を阻止した[17]

1774年解散総選挙においてバークは彼の選挙区での演説で庶民院議員と地元選挙区の密接さを強調する一方、「庶民院は様々な敵対的利害から派遣されてきた大使の会議ではない」と述べることで、庶民院議員は自分の選挙区だけにとらわれず全国民のために行動すべきと訴えた。以降これはロッキンガム派が政党として固まるうえで重要な行動原理となる[18]
アメリカ独立戦争をめぐって

1775年にアメリカ独立戦争が始まった。ロッキンガム派はアメリカ植民地人のジョージ3世への抵抗運動を自分たちのジョージ3世への抵抗運動と重ね合わせたため、アメリカ植民地人の抵抗運動に共感を寄せていた。しかし1776年に独立宣言が発せられ、アメリカの勝利が大英帝国の崩壊を意味することが明確となったため、不安になったロッキンガム派は立場を曖昧にし、1777年初めの頃には議会を欠席する戦術をとるようになった[19]


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