チャールズ・リンドバーグ
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リンドバーグ夫妻の北太平洋航路調査と来日リンドバーグ夫妻の日本訪問名島飛行場に着水したリンドバーグ夫妻の水上機(1931年9月17日)

リンドバーグ夫妻は1931年に、パンアメリカン航空から依頼された北太平洋航路調査のためニューヨークからカナダアラスカ州を経て、日本と中華民国までロッキード・シリウス(英語版)水上機「チンミサトーク(英語版)(イヌイットの言葉で『大鳥』の意)」で飛行した。

アラスカから千島列島沿いに南下する際、8月19日には計吐夷島の南東洋上に不時着[4]。救援に向かった農林省の新知丸が機体を新知島の武魯頓湾に曳航してキャブレターを修理[5]、8月22日に離水するも、同日択捉島の紗那沼に再び不時着した[6]

8月24日になり、ようやく根室に到着[7][8] [9]。2日間滞在後、8月26日霞ケ浦へ飛来[9]。フォーブス(英語版)駐日米国大使安保清種海軍大臣杉山元陸軍次官小泉又次郎逓信大臣ら日米の政府高官や海軍関係者など約1,000人が出迎え、国内外からの取材陣は200人を超えた[9]。同日列車で東京へ向かい、聖路加病院トイスラー院長邸に滞在、以後トイスラー邸が東京における夫妻の拠点となる[9]。27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問をこなし、9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養[9]。5日は日光を周遊し金谷ホテルで1泊、6日に東京へ戻った[9]。7日以降も各種行事の合間を縫って、チャールズは逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進め、妻のアンは博物館の見学や茶道華道の体験などをして過ごした[9]

9月13日大阪へ飛来後、自動車で京都に入洛し、都ホテルに宿泊[10]。14日から16日にかけて府庁舎等へ表敬訪問や府内名所を観光[10]。17日滞在先の奈良から大阪を経て、福岡へ向かう[10]。この時、京都の少年がリンドバーグ夫妻の飛行機に潜入し、密航を企てる事件が発生している[10]。9月17日16時に福岡に飛来し名島飛行場(現・福岡市東区名島)に着水した。単なる「漫遊飛行」なので大げさな歓迎は不要という意向が示されたため、飛行場での歓迎会は簡素に行われたが、3,000人の市民が飛行場に詰めかけた。機体の点検を行った夫妻は、深夜に宿舎となる共進亭ホテルに入った。翌9月18日は福岡市役所の表敬訪問や西公園の散策を経て、早めにホテルに戻った[11]

9月18日、福岡を離水した後、中華民国南京漢口まで飛行した。妻のアン・モローは、飛行記録として『NORTH TO THE ORIENT 』を著した。
人工心臓の開発リンドバーグの還流ポンプ

リンドバーグの大きな業績の一つとして人工心臓の開発がある[12]。リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪れた[12]。2人は意気投合し共同研究をおこない、1935年に「カレル・リンドバーグポンプ」を開発[12]。これは今日の人工心臓に影響を与えている[12][13]。組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた[13]
第二次世界大戦

第二次世界大戦前夜、リンドバーグはアメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍についての報告を行った。1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やアンシュルスなどの強権的な対外政策を進めるナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。

ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。1941年1月23日にはアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。リンドバーグは孤立主義をとなえるアメリカ第一委員会(America First Committee)の主要なスポークスマンであり、1941年9月11日アイオワ州デモインでの演説では、アメリカを戦争に引きずり込もうとしている3大勢力はイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権であると述べた。この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、フランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。

1941年12月7日日本との戦争が開始されると、リンドバーグは「参戦には反対だったが、開戦した以上は祖国への義務を果たしたい」として陸軍航空隊への復帰を試みたが、上記のようないきさつがあったためにその真意を疑われ、ルーズベルト大統領やヘンリー・スティムソン陸軍長官とその補佐官らに拒否され復帰できなかった[14]。そのため、政府と航空会社(トランス・ワールド航空)に対する民間のコンサルティング会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。


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