チャールズ・マンソン
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ついにはマンソンが殺せと言えば人殺しも辞さない殺人集団へと変貌していくことになる。マンソンのコミューンは金銭問題や信者らの緊張関係、警察からの外的な圧力によってマンソンの妄想が過激化していった[7]
連続殺人事件

1969年7月、自宅に2万ドルの遺産を隠しているという噂があったゲイリー・ヒンマンという麻薬の売人で音楽教師の下をマンソン・ファミリーのメンバーであるボビー・ボーソレイユ、スーザン・アトキンズ、メアリー・ブルンナーの3人と訪れた。金が見つからなかったためボーソレイユはマンソンの命令で、ヒンマンをナイフで刺殺し、ヒンマンの血で壁に「政治豚」(Political Pig)と書きなぐり、黒人解放組織ブラックパンサー党の仕業に仕立て上げた。黒人の隠語でPig ピッグ(豚)は「白人」を意味した[8]。マンソンは黒人の隠語を書いて黒人の仕業であると偽装することでこの事件から人種戦争が始まると確信していた[8]

まもなくボーソレイユが車両窃盗、メアリー・ブルンナーもクレジットカードの不正利用で逮捕された。これに危機感を持ったマンソンは数件の残忍な殺人事件を計画し、ファミリーのメンバーであるテックス・ワトソン、スーザン・アトキンズ、パトリシア・クレンウィンケル、リンダ・キャサビアンに実行を命じた。これがマンソンを象徴する有名なテート・ラビアンカ殺人事件である。1969年8月9日、ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8か月だった女優のシャロン・テートと、元婚約者で世界的なヘア・スタイリストのジェイ・セブリング、夫ポランスキーの親友ヴォイテック・フライコウスキー、その恋人でコーヒー財閥の相続人アビゲイル・フォルジャーが自宅で惨殺され、数日後、同じ手口でスーパーマーケットチェーンのオーナーだったラビアンカ夫妻が殺された。
逮捕サン・クエンティン州立刑務所でのマグショット(1971年撮影)

この事件から1週間も経たぬうち、警察が車両窃盗の疑いでスパーン牧場に家宅捜索を行って、マンソンは他のメンバーたちと共に逮捕された。ただしこの時点で警察は、マンソン・ファミリーを殺人事件の容疑者だとは見なしていなかった。しかも、証拠不十分で全員釈放となっている。

捜査が急展開を迎えたのは、10月になってからだった。ヒンマン殺しのボーソレイユの恋人であるキティ・ルートシンガーが逮捕され、自分の無実を証明するためにファミリーの悪行を白状した。そして、別の軽犯罪で逮捕されていたスーザン・アトキンズが、テート・ラビアンカ事件の真犯人は自分だと同房囚に自慢した。この同房囚が看守に密告して、そこから芋づる式に実行犯やマンソンの逮捕に繋がった。

マンソンは、取り調べや裁判では殺人を指示したことを認めず、自分に心酔したメンバーが勝手に暴発しただけだと主張した。ともに裁判を受けた3人の女性信者も従ったが、事件に罪悪感を感じていたリンダ・キャサビアンは、検察側証人として証言しマンソンを激怒させた。公判中は検察や証人、世間を嘲弄しマスコミから注目を浴びた。

マンソンは自ら殺害を実行することはなく、テート・ラビアンカ殺害事件に関しても実行犯は3人の女性信者で全員が終身刑となり、マンソン自身にも1971年4月19日に死刑判決が下された。しかし続く1972年2月にカリフォルニア州では死刑制度が一時的に廃止されたため、これは自動的に終身刑に減刑された。後年同州の死刑制度は復活したが、マンソンには影響が及ばず、カリフォルニア州刑務所で服役していた。

獄中では、最後まで罪を認めず反省や後悔、謝罪はなかったが、悪のカリスマとしてファンレターが大量に届き作詞、作曲に励んだ。1981年、獄中のマンソンは事件後初のテレビインタビューに応じ、たびたびマスコミから取材を受けた。

服役中にたびたび仮釈放申請が出され、そのたびにマスコミの関心を集めている。2007年の仮釈放に向けて通算11回目の申請を行ったが、「依然として他者に理不尽な危険を及ぼしており、接触する人間に危害を加える恐れがある」として却下された。また、2012年には通算12回目の仮釈放の申請を行ったが却下されている。

2014年11月、9年前からマンソンと交流を続けてきた26歳の女性が、自分はチャールズ・マンソンの妻だとCNNのインタビューに答えており、獄中結婚の手続きに入ったことが報じられた[9]が、女性がマンソンの遺体をガラス張りのショーケースに納めてロサンゼルスで陳列し、大儲けしようと企んでいたことが発覚し、婚約は解消された[10]
晩年

2017年1月1日、胃腸出血のため、カリフォルニア州の刑務所からベーカーズフィールドのマーシー病院に緊急入院した。ある情報筋は、ロサンゼルス・タイムズにマンソンは重病であると語った[11]。彼は1月6日までに刑務所に戻った。彼が受けた治療の内容は開示されなかった[12]。2017年11月19日にカリフォルニア州ベーカーズフィールドの病院にて急性心筋梗塞で死去[13]。83歳没。
サブカルチャーとの関連

マンソンの裁判と有罪判決以来、マンソンの名とそのイメージはアメリカン・ポップ・カルチャーにおいて「負のシンボル」として広く知れ渡り、そのイメージは多くの音楽家や芸術家によって用いられた。例えばマリリン・マンソンは、マリリン・モンローを「美の象徴」、チャールズ・マンソンを「悪の象徴」と捉え、それを合わせた名を芸名に名乗る。

成功することはなかったがマンソン自身は音楽家であり、いくつもの歌を作っている。殺人事件が明るみに出る以前、彼はザ・ビーチ・ボーイズデニス・ウィルソンを始めとする著名な音楽家と友人関係にあった。マンソンによれば、ビートルズの楽曲『ヘルター・スケルター』は、マンソンの画策した同名の黙示、人種間の戦争(Race war)、殺人を引き起こすことを想定した曲であるという。彼に関連するロックと、大衆文化による悪名を得た当初から、マンソンは狂気、暴力、そして恐怖の象徴となった。最終的に、この単語はマンソン裁判の担当検事で、後に作家となったヴィンセント・ブーリオーシ(英語版)が書いたマンソンの殺人についての著書『ヘルター・スケルター(英語版)』の題名に使われた。これは1976年に『ヘルター・スケルター(英語版)』としてテレビ映画化され、スティーヴ・レイルズバックがマンソンを演じている。2019年にはこの事件をモチーフとした映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開された。監督はクエンティン・タランティーノ、出演はレオナルド・ディカプリオブラッド・ピット[14]。マンソンはデイモン・ヘリマンが演じている。
アルバムLie- The Love & Terror Cult「:en:Lie: The Love and Terror Cult」を参照

マンソンは1967年から録音を始め、1968年8月にゴールドスタースタジオで録音し、オーバー・ダビングも1968年8月に行われた[15]。1970年にPhil Kaufmanがプロデュースし、マンソンのアルバム「Lie: The Love and Terror Cult」がAwareness Recordsから発売された[16]。1974年にはESPディスク・レコードからも再発された[17]Lie: The Love and Terror Cult、1970、Awareness Records
備考

Jonathan Barnbrookが作成した
欧文書体、「MASON」はチャールズ・マンソンに由来する[18]

連邦捜査局(FBI)の元捜査官査官ロバート・K・レスラーは、服役中のマンソンと対談を行ったことがある。最初は警戒していたが意図が分かると協力的にどのように若者たちを操ったか話した。ワイドショー番組「ザ・ワイド」の特番では麻原彰晃との共通点を指摘し、ともにサイコパスであると主張した。

一時期、隣の監房に心理学者のティモシー・リアリーがおり、アドバイスをしたことがある。

マンソンを狂信していた女性信者3人のうち1人でシャロン・テート殺害事件の実行犯スーザン・アトキンス(英語版)は、2009年9月24日に獄死した[19]

息子は少なくとも2人いる。実子でミュージシャンのマシュー・ロバーツは、生まれてすぐ養子に出され、父を知らずに育った。後に自身の手で調べて父のことを知り、悩んだ末に雑誌に告白した[20]。信者のメアリー・ブルンナーとの間に生まれたもう1人の息子は生前は父親と接触しなかったが死後、彼を正当化する告白をしたことがある[21]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 11月11日という説もあるが、生年月日が不明瞭なのは母親の記憶が曖昧だからである。


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