チャールズ・バベッジ
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バベッジの脳は、半分がイングランド王立外科医師会に保管され、もう半分がサイエンス・ミュージアムにて展示されている[22]

一番年下の息子ヘンリー・プレヴォスト・バベッジ (1824?1918) は、父の設計に基づいて6台の階差機関を製作し[23]、そのうちの1台がハーバード大学に送られた。Harvard Mark I を開発したハワード・エイケンが後にそれを発見している。ヘンリー・プレヴォストが1910年に製作した解析機関の演算器はダッドマストン・ホールに展示されていたが、今はサイエンス・ミュージアムにて展示されている[24]
計算機の設計階差機関(1号機)の一部。バベッジの死後、息子が残っていた部品で組み立てたもの

「1812年、彼は解析協会の自室で座って間違いだらけの対数表を見ていた。そして、機械に計算させればいいと思いついた。フランス政府はいくつかの数表を新しい手法で製作していた。数人の数学者が数表の計算方法を決定し、6人ほどでそれを単純な工程に分解して、個々の工程は加算か減算をすればよいだけにする。そして加減算だけを教え込まれた80人の計算手に計算させるのである。これが計算における大量生産的手法の最初の適用例であり、バベッジは熟練していない計算手を完全に機械に置き換えれば、より素早く間違わずに数表を作れるというアイデアにとりつかれた。[25]

バベッジの機械は初期の機械式計算機の1つだが、実際には完成しなかった。その最大の原因は資金問題と自身の性格の問題である。いくつかの蒸気機関で駆動する機械の製作を指揮して若干の成功を収め、計算を機械化可能であることを示した。その機械は扱いにくかったが、現代のコンピュータと基本的アーキテクチャはよく似ている。データとプログラムは分離されており、命令に従って動作し、演算器は条件分岐が可能で、本体とは別に入出力装置を備えていた。政府から10年以上に渡って総額1万7000ポンドの資金援助を受けたが、最終的に信頼を失って資金提供は打ち切られた[26]
階差機関サイエンス・ミュージアムに展示されている階差機関2号機。バベッジの設計に基づいて製作された。詳細は「階差機関」を参照

当時、数表計算手と呼ばれる大勢の人間が流れ作業的に単純な計算をすることで作られていた。ケンブリッジで彼はこの手法の誤り率が高いことを見ており、数表作成の機械化をライフワークにするようになった。

1822年階差機関 (difference engine) と名付けた多項式関数の値を計算する機械の設計を開始した。当時の他の機械式計算機とは異なり、バベッジの階差機関は一連の数値を自動的に生成するものだった。有限差分法を使うことで、乗除算を使わずに関数の値を計算できる。

1820年代初め、バベッジは最初の階差機関の試作にとりかかった。そのとき製作した一部の部品は今もオックスフォード科学史博物館にある[27]。この試作機が「階差機関1号機」へと発展した。しかし完成はせず、出来上がった部分はロンドンのサイエンス・ミュージアムにある。この階差機関1号機は約2,5000個の部品で構成され、13,600kgの重量で、高さは2.4mとなる予定だった。資金提供も受けたが、完成することはなかった。後に改良を加えた「階差機関2号機」を設計したが、バベッジ自身は製作していない。

階差機関2号機が実際に製作されたのは1989年になってからのことで、ロンドンのサイエンス・ミュージアムでバベッジの設計に基づいて19世紀当時の技術精度にあわせて製作された。1991年に完成し、31桁の計算結果を出力した。また、技術者で大富豪のネイサン・ミアボルド(英語版)もこれを製作し、2008年5月10日、マウンテンビューコンピュータ歴史博物館に寄贈した[28][29]。それまで誰も製作していなかったため、これらはレプリカ(複製)ではない。
解析機関詳細は「解析機関」を参照

階差機関の製作が破綻して間もなく、バベッジはさらに汎用的で複雑な解析機関を構想し始め、1871年に亡くなる直前までその設計を改良し続けた。2つの機関の主な違いは、解析機関ではパンチカードでプログラムを組むことができるという点である。プログラムをカードで用意することで、最初にプログラムを組めば、それを機械に入れるだけで実行することができる。解析機関はジャカード織機のパンチカードのループで計算機構を制御し、前の計算結果に基づいて次の計算を行うことができる。逐次制御、分岐、ループといった現代のコンピュータのような特徴すら、いくつかを備えている。

エイダ・ラブレスはバベッジのアイデアを完全に理解していた数少ない人物の1人で、バベッジが考える単なる計算機に留まらない解析機関の可能性を見出していた[30]。解析機関の能力を示すために実際にプログラムを作成した。ベルヌーイ数の数列を計算するプログラムなどである。今では世界初のプログラマと言われている[31]。1979年には、彼女にちなんであるプログラミング言語がAdaと名付けられた。

2011年、イギリスの研究者らが解析機関を製作するプロジェクト " ⇒Plan 28" を立ち上げた。バベッジは設計を改良し続け、完了させていなかったため、まずクラウドソーシングによってベースとなる設計を確定させるプロジェクトを開始した[32]。675バイト相当のメモリを持ち、7Hzのクロック周波数相当で動作する予定である。バベッジの没後150周年となる2021年までに完成させることを目標としている[33]
現代的応用

そろばんや機械式計算機は集積回路を使った電子計算機に取って代わられたが、MEMSナノテクノロジーの最近の発展により、微細な機械に計算させるハイテク実験が行われるようになっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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