チャールズ・タウンゼンド_(第2代タウンゼンド子爵)
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貴族院議員として政界に入った当初はトーリー党を支持していたが、やがてホイッグ党に鞍替えして積極的に政治に関わるようになった[5]

1702年に即位したアン女王はホイッグ党嫌いでトーリー党中心の政権を作っていたが、1705年6月の総選挙(英語版)でトーリー党・ホイッグ党の議席が伯仲した結果、ホイッグ政治家の一部を政府に登用する必要に迫られた[6]

タウンゼンドも1706年王立協会フェローに選ばれ[7]1707年には女王親衛隊隊長となる[5]。翌1708年には枢密顧問官に列する[5]1709年に駐オランダ大使(英語版)に任命され、スペイン継承戦争の講和を目指してユトレヒト条約の先行交渉を行った[5]

しかし1710年の国教会聖職者ヘンリー・サッシェバレル(英語版)の裁判[注釈 1]の影響で民衆の非国教徒やホイッグ党への批判は高まり、逆にトーリー党が支持を集めるようになった[11]。1710年10月の総選挙でもトーリー党が圧勝した。こうした情勢からアン女王は再びトーリー党中心の政府を構築し、ホイッグ党政治家の辞職が相次ぐようになった[11][12]

タウンゼンドも1711年にはトーリー党政権によって駐オランダ大使を解任されてイギリスへ召還された[5]。以降再び野党政治家となり、同年にトーリー党政権が提出した便宜的国教徒禁止法案に反対した[4]

1711年にエリザベスと死別し、1713年には同じくトーリー党から罷免されていた庶民院ホイッグ党の政治家ロバート・ウォルポール(後の首相)の妹ドロシー(英語版)と再婚した[4][1]
ハノーヴァー朝初期

1714年にアン女王が崩御し、その又従兄ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世に即位すると賛成の意を示し、トーリー党がジョージ1世に支持されずホイッグ党の弾劾で没落すると新たに成立したホイッグ党政権に北部担当国務大臣として加わった[13][14][15]

しかし1715年ジャコバイト反乱の鎮圧後に政府は外交方針をめぐって分裂し始めた。ジェームズ・スタンホープと第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー大北方戦争でハノーファーを重視するジョージ1世の方針に従ってスウェーデンへの対抗、フランスとの連携を志向し、1715年10月にもスウェーデンに宣戦布告した。一方タウンゼンドやウォルポールはこれを「イギリスよりハノーヴァーの利益を優先させる政策」として反対した[16][17]

タウンゼンドとウォルポールはイギリスとフランスの条約締結(英仏同盟)の妨害に当たり、このため条約締結は1716年11月までずれ込んだ。ジョージ1世はこれに怒り、1716年12月にもタウンゼンドを北方担当国務大臣から罷免し、アイルランド総督に転任させ、さらに1717年4月にはアイルランド総督からも解任された(ウォルポールも一緒に辞職して下野した)[16][17]

しかし1720年に北方戦争が終結したことで外交政策上の対立は自然消滅し、タウンゼンドもウォルポールもスタンホープと和解して政権復帰することになり、タウンゼンドは枢密院議長に就任している[18]
ウォルポール政権下で

1720年の南海泡沫事件で政権は動揺し、翌1721年にスタンホープが急死、サンダーランドも失脚した。タウンゼンドはスタンホープの後任として1721年2月に北方担当国務大臣に就任した。さらに4月には盟友で義兄のウォルポールがサンダーランドに代わって第一大蔵卿に就任し、事実上の首相となった[16][18]

1724年にサンダーランドの流れをくむ第2代カートレット男爵ジョン・カートレットが失脚すると代わってウォルポール政権の外交政策を担当するようになった[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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