チャールズ・サンダース・パース
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1878年、彼はメートルを特定の振動数の非常に多くの波長として定義した最初の人となった[注釈 4]
大学と追放

1879年、パースは新しいジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。同大学は彼が興味のある多くの分野で有力だった。たとえば哲学(Josiah Royceとジョン・デューイは同大学で博士号を取得した)、心理学(スタンレー・ホールが教鞭を執り、Joseph Jastrowが研究を行った。Jastrowは重要な経験的研究の成果をパースと共同で執筆した)、そして数学(ジェームス・ジョセフ・シルベスターが教鞭を執った。彼は数学と論理学についてのパースの著作を称賛するようになった)といった具合である。この身分が、パースの手にした唯一の大学での役職ということになった。なお大学での職、助成金、そして科学界での地位を得ようとするパースの努力は、当時の有力な科学者サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、ことごとく台無しにされていたといわれる[3]

パースの私生活もまた彼を不利にした。彼の1人目の妻ハリエット・メルシナ・フェイ (Harriet Melusina Fay) は1875年に彼と別れた。彼は間もなくある女性と親しくなったが、彼女の旧姓と国籍は現在も不明確なままである(彼女の名前はジュリエット・フロイシー[Juliette Froissy]で、彼女はフランス人だったというのが最も信頼できる推測である)。だが、彼がハリエットと離婚したのは1883年になってからのことで、彼はそのあとでジュリエットと結婚した。その年、ニューカムはジョンズ・ホプキンス大学の理事に、「パースが、ホプキンス大学で働いている間、ある女性と暮らしたり旅行したりしていたが、パースは彼女と結婚していない」ということを指摘した。スキャンダルの結果、彼は解任された。以後、Clark University、ウィスコンシン大学マディソン校ミシガン大学コーネル大学スタンフォード大学シカゴ大学で就職を試みるがすべて失敗した。パースはどちらの結婚でも子供を持たなかった。
離職

1880年代、パースの沿岸測量局の仕事への無関心は増し、測量作業の質も速度も低下した。数ヶ月で完成させるべきレポートを書くのに何年もかかったともいわれる。その間、『センチュリー事典』の論理学、哲学、そして科学に関連する何百もの項目を執筆した[注釈 5]

1885年、アリソン委員会の検査はパースの潔白を証明したが、局長のJulius Hilgardおよび沿岸測量局の何人かのほかの従業員は、公金の不正支出のとがで解雇されることになった。1891年、パースは局長のトマス・メンデンホールからの要請で沿岸測量部を辞任し、以後、定職に就くことはなかった。

貧困

1887年ペンシルベニア州ミルフォード近くの2000エーカー(8平方km)の田舎の土地を買うために両親からの相続財産の一部を支払ったが、この土地が経済的収益をもたらすことはけっしてなかった。彼はそこに大きな家を建て、家に「アリスベ」(Arisbe) という名前をつけ、人生の残りの期間を過ごし、大量に執筆をしたが、遺稿の多くは公表されていない。

生活は、まもなく深刻な金銭的、法的困難を引き起こし、最後の20年間の多くを冬は暖房なしで過ごし、地元のパン屋が親切に寄贈してくれた古いパンをいつも食べていた。新しい文房具を買うことができないので、彼は古い原稿の裏に執筆した。暴行および債務不履行に対する未執行の逮捕状のため、彼はしばらくの間ニューヨーク市で逃亡生活を送らざるをえなかった。彼の兄弟James Mills Peirceと彼の近所の人たち、Gifford Pinchotの親類の人たちを含む何人かの人たちが彼の借金を処理し、彼の固定資産税と貸付金を支払った。

パースは科学技術関連のコンサルタントをやり、原稿料を得るために大量に執筆した。執筆したのは主に辞書と百科事典の項目、「ネイション」誌[注釈 6]での書評だった。ほかスミソニアン博物館サミュエル・ラングレー館長からの強い勧めで、同館向けに翻訳をした。パースは動力飛行についてのラングレーの研究のために、大量の数値計算を行いもした。資金を稼ぐことを望んで、パースは発明をしようと試みた。彼は多くの著書を作ろうとしたが、完成させることはできなかった。

1888年グロバー・クリーブランド大統領は彼を分析委員会 (Assay Commission) のメンバーに任命した。

1890年以降、シカゴのFrancis C. Russell判事がパースの友人かつ崇拝者となり、RussellはパースをPaul CarusとEdward Hegelerに紹介した。彼らはそれぞれ、アメリカの草分け的な哲学雑誌「モニスト」(The Monist) の編集長とオーナーであり、この雑誌は最終的にパースが執筆した14本の論文を公表した。

自分の一生の仕事を要約した著書を執筆するために、助成金を求めて、新たに創設されたカーネギー研究所へ申請を行ったが却下された。彼の宿敵ニューカムが同研究所の執行委員会に参加しており、さらに同研究所の理事長はパースが解任されたときのジョンズ・ホプキンス大学の学長だった。

これらの困難な時期にパースを助けたのは、古い友人ウィリアム・ジェームズだった。ジェームズはハーバード大学周辺でパースの連続講演を企画した。また1898年からジェームズが亡くなる1910年までの間毎年、ジェームズはボストンの友人たちに、パース支援の寄付を要請した。パースはジェームズの長男を、ジュリエットが自分より先に死んだ場合の自分の遺産相続人に指名することによって返礼した[注釈 7]

パースはペンシルベニア州ミルフォードで極貧状態で亡くなり、彼の妻はその20年後に亡くなった。ジュリエット・パースはパースの遺灰を入れた骨壺をアリスベで取っておいた。1934年、ペンシルベニア州知事のギフォード・ピンショーはミルフォード墓地にジュリエットを埋葬する手配をした。パースの遺灰の入った骨壺はジュリエットと共に埋葬された。
受容

バートランド・ラッセルは1959年に次のように書いた。


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