チャーリー・チャップリン
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チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストリート(英語版)で生まれたとしているが[3]、公式の出生記録は存在していない[2]。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子のシドニーを出産していた[4][注 1]。両親は共にミュージック・ホールの芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった[5]1891年までに両親は別居し、翌1892年にハンナは夫の芸人仲間のレオ・ドライデン(英語版)との間にジョージ・ウィーラー・ドライデンを出産したが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった[6]

幼少期のチャップリンは、現在のランベス区内のケニントン(英語版)でハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった[7]。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーとランベス救貧院(英語版)に収容され、すぐにハンウェル(英語版)にある孤児や貧困児のための学校に移された[8][9]1898年1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス救貧院に収容された[10]。救貧院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に救貧院に再収容された[11]。チャップリンは収容後すぐにノーウッド(英語版)にある貧困児のための学校に移された[12]

1898年9月、ハンナは栄養失調梅毒を原因とする精神病を発症したため、ケイン・ヒル精神病院(英語版)に収容された[13]。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった[14]。チャールズは重度のアルコール依存症に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった[15]。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた[16]。チャールズは1901年肝硬変のため38歳で亡くなった[17]
舞台デビュー舞台『シャーロック・ホームズ(英語版)』でビリー役を演じた10代のチャップリン。

チャップリンの初舞台は5歳の時だった。オールダーショットの劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた[7][18]。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている[16]。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて[19]、木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズ(英語版)の座員となり、1899年から1900年にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した[注 2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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