チャルディラーンの戦い
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本来セリムはさらにイスマーイールを追走し、サファヴィーの息の根を止めるつもりであったとみられる[20]。しかし、補給の困難と遠征による疲れや軍勢内部に徐々に広がった厭戦気分から深追いをさけて退却せざるを得なかった。
影響イズニク陶器

敗戦と2人の妻を捕らえられたことで、イスマーイール1世の不敗神話には大きな傷がついた。以後彼は国政への興味を失い[21]、酒に溺れる日々を過ごすようになる[22]。イスマーイールは1524年に37歳で没するが、その後を継いだタフマースブ1世は次の戦いに向けて大砲を配備を進めるなど、徹底した国内改革に着手した。

戦いの結果、オスマン帝国が東アナトリア・ 北イラクでの支配権を得た。サファヴィー朝はアゼルバイジャンロレスターンケルマーンシャーなどの地域を失い、後にこれらを回復した一方で、イラク・クルディスタンアルメニアなどは永久に失われることになった。イラクにおけるシーア派宗教施設の喪失はペルシア・あるいは今日のイランにとっては精神的に大きな痛手であり、これらを回復しようとするイランのイラク側への干渉は、この戦いに端を発している。

この戦いは周辺地域に多くの影響を及ぼしたが、その最も大きなものは両帝国の勢力範囲が画定されたことであると言えるかもしれない。このときの国境線は、今日のトルコ=イラン国境にも通じている。また、これによりサファヴィー朝の首都タブリーズが国境に面する対オスマン最前線の都市となり、常にその脅威にさらされることとなった。サファヴィー朝が16世紀中ごろにカズヴィーン1598年イスファハーンへと遷都するのは、これが主な要因であったと推測される。

タブリーズ包囲の際、オスマン帝国軍は多くの商人や陶磁職人を自国へと連行した[23]。イズニク陶器(w:Iznik pottery)の発達には、このことが大きく寄与していると言われている[24]
戦場跡戦場跡につくられたモニュメント

2003年、Jala Ashaqi村近くの戦場跡に煉瓦でできたドーム状のモニュメントが建造された。また、サファヴィー朝の武将であるSeyid Sadraddinの銅像も建っている[25]
脚注^ a b 林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年、p.110頁。ISBN 978-4062807104。 
^ Keegan & Wheatcroft, Who's Who in Military History, Routledge, 1996. p. 268
「1515年、セリム1世は6万の軍を率いて東へ向かった。その部隊はアジア最強のイェニチェリスィパーヒー、騎兵隊等で構成され、どの兵科もよく訓練されていた。(中略)イースマイール1世率いる兵は主に徴兵されたトルクメン人によって構成されていた。彼らは勇敢だったが、訓練の質と兵力の点でオスマン帝国軍に劣っていた(…)」とある
^ a b Ghulam Sarwar, "History of Shah Isma'il Safawi", AMS, New York, 1975, p. 79
^ a b Roger M. Savory, Iran under the Safavids, Cambridge, 1980, p. 41
^ 前掲、林『オスマン帝国500年の平和』p.110 には、「両軍とも約10万の軍勢だった」ともある。
^ Serefname II s. 158
^ 羽田正 著「第2章 サファヴィー朝の時代」、永田雄三・羽田正編 編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中公文庫、2008年、pp.277-285頁。ISBN 978-4-12-205030-3。 
^ 羽田正 著「第2章 東方イスラーム世界の成立」、鈴木董・編 編『新書イスラームの世界史(2)パクス・イスラミカの世紀』講談社現代新書、1993年、pp.82頁。ISBN 4-06-149166-0。 
^ The Cambridge history of Iran, By William Bayne Fisher, Peter Jackson, Laurence Lockhart, pg.224
^ The imperial harem: women and sovereignty in the Ottoman Empire, By Leslie P. Peirce, pg. 37
^ An Introduction to Shi?i Islam: The History and Doctrines of Twelver Shi ism, By Moojan Momen, pg. 107
^ The Cambridge history of Iran, By William Bayne Fisher, Peter Jackson, Laurence Lockhart, pg. 359
^ The Islamic world in ascendancy: from the Arab conquests to the siege of Vienna, By Martin Sicker, pg. 197
^ 山川出版社『詳説 世界史研究』(1995年初版本)p.307 など。また、ラテン文字転写も「Calduran」としている。


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