御者は戦力にならないため、射撃戦に対応する弓兵や白兵戦に対応する槍などのポールウェポンなどで武装した者を乗車させる必要がある。また車輪自体に動力は無いため、旋回は各馬の調教に熟練した御者の手綱さばき頼みで、今で言うところのドリフト走行のように車輪を滑らせて旋回する必要があり、戦車はこのような横方向からの荷重に対して構造上非常に脆い。機動性から見ても、戦力構成から見ても騎兵に比べて大きく劣る。とは言うものの、そもそも馬が小型で背も弱く騎乗に適さないために騎兵が存在しなかった時代においては、戦車の機動性は他に代えるものがなかった。高速で移動しながらでも弓矢による射撃を行えることや、加速をつけたポールウェポンによる破壊力は驚異的であった。騎兵が戦場で盛んに現れる時代になっても、馬上で扱うには大きすぎる長弓や弩砲で射撃を行ったり、戦車の前面や側面に槍や剣、鎌を取り付けて敵の重装歩兵の隊列に突撃し隊列を分断、混乱させるような運用もされた。春秋時代の中国の戦車の図解後漢(東漢)の戦車
西方世界では重装歩兵時代をはさみ、いつ騎兵と入れ替わったかは定かではない。古代ギリシアでも末期になると、既に過去に戦車を実戦に用いた事が忘れられてしまい、叙事詩や物語作品では、英雄を戦場に運ぶ乗り物として描写された。古代ローマでは戦車を用いた記録が無い。ガイウス・ユリウス・カエサルはガリア戦記に、紀元前1世紀のブリテン島での戦車の特異な用法を記している。ただし戦場の兵器以外の使途として、古代ローマでは戦車競走が行われるようになり、首都・ローマをはじめとする帝国の各地に競馬場が作られた。その中でも東ローマ帝国の首都・コンスタンティノポリスでは12世紀まで戦車競走が行われていた。現在行われている繋駕速歩競走は、この戦車競走のスタイルを引き継いだものである。 シュメールにおいて、もっとも初期の記録は紀元前2500年頃の物である。メスのアジアノロバとロバの混血の Kunga、もしくは牛が引いていた[2][3]。 中国では現在も「戦車
中東
中国
中国では春秋時代までは戦車が主流であったが、都市国家から領域国家の時代に移行する戦国時代ころより歩兵戦が主流となった。趙の武霊王は紀元前307年に胡服騎射を取り入れ、これ以降は騎兵の時代となる。しかしながらそれ以降の前漢代以降も防御力・輸送力の高さから戦車は用いられており、屋根のある戦車や屋根の上に建物が立てられた戦車も用いられている。戦車は歩兵の指揮官用の指揮車としても使われた。『司馬法』では、戦車は密集すると守りが固くなるとされている。また『孫子』には戦車の戦力維持に要する膨大なコストに対する警告が見受けられる。中国における戦車の運用方法に関しては「戈」の項目も参照されたい。
『李衛公問対』によれば、中国の周では1台の戦車に75人の兵が従い、楚では1台の戦車に150人の兵が従った。また曹操軍では攻車(戦闘用の戦車)1台に75人の兵が従い、守車(輸送用の戦車、輜重車)1台には炊事夫・警備兵など25人が従った。 主にスピードで歩兵に優る機動兵器として運用されたチャリオットとは別の潮流として、馬車ないし荷車の人力を超える重量物搬送機材としての側面から、重防護かつ移動可能な装甲兵器としての利用例も見られる。
古代以降の戦車