チャム(含むフロイ)は、ジャライ、エデ、チュルー、ラグライなどチャム語支の話者集団とともに、2世紀から7世紀まで林邑国の、7世紀から14世紀まで占城国(Campanagara, Nagar Cam, チャンパ王国)の主要民族であった。チャムの国、占城は、「都市国家・占城」を中心とするマンダラ国家(小王国の連合体)であった。文化としては舞踊と音楽、産業としては織物業や窯業が盛んで、一弦琴カニーが普及し、レンガ造りの壮麗なヒンドゥー建築をサンスクリット碑文とともに各地に残し、その陶磁器は山地民の間で威信財として流通し、その綿織物は占城裂(せんじょうぎれ、ちゃんぱんぎれ)の名で日本にも輸入された。唐代の占城は、占城のほかに林邑、崑崙、環王、奔陀浪など複数の漢字国名を使用しており、『旧唐書』や『新唐書』の撰者たちは南方の属領であった奔陀浪を除きこれらの国名を占城の異なる時期の国名と考えた。しかし、そうではなく、奔陀浪を含め、林邑、崑崙、環王は占城国内に同時期に存在した国内国(小王国)だった可能性がある。遣唐使・平群広成らが唐の玄宗皇帝開元23年(735年)に漂着した崑崙は、唐の張九齢らの記録では林邑(チャンパ)またはその一部であった。延暦18年(799年)に日本の幡豆海岸に漂着して綿を伝え一弦琴を演奏した崑崙人も、それらがチャム文化を代表するものであるため、チャム人(チャンパ人)だった可能性がある。『宋史』によれば、宋代の占城は北王国(烏里州、旧州)、南王国(施備州、新州)、山の国(上源州)、南属領(パーンドゥランガ州=パンラン道)などから成り、「都市国家・占城」は新州にあった。1471年の新州(闍槃)王国滅亡以降、占城は新州を含む本領をすべて喪失した。今日のフロイは占城の本領に残った山地民の後継者である。一方、今日のチャムやチュルー、ラグライは1397年に新州(闍槃)の「ジュク Jek 」にほろぼされた小王国「アグイ Bal Anguei」の遺民が1433年に南属領「パンダラン Pangdarang」に移って再建した後期占城国および順城鎮(1433-1693, 1695-1832)の後継者である。 『大南寔録正編』第一紀、第二紀によれば、19世紀のベトナム阮朝はチャムを慣習(アダット)に従って「蛮、占、尼、藍」に四分類した。中部、ビンディン省及びフーイエン省(平定省・富安省)のチャムはマン(蛮=山地民の意、フロイ集団 Hroi)と表記された。
ベトナム阮朝によるチャムの四分類