チャド
[Wikipedia|▼Menu]
 - 日付フランスより
1960年8月11日
通貨CFAフランXAF
時間帯UTC(+1) (DST:なし)
ISO 3166-1TD / TCD
ccTLD.td
国際電話番号235

チャド共和国(チャドきょうわこく、フランス語: Republique du Tchad 発音: [t?a(d)]アラビア語: ???????? ????‎)、通称チャドは、アフリカ大陸中央部に位置する内陸国。首都はンジャメナである。国土は東はスーダン、南は中央アフリカ、南西はカメルーンナイジェリア、西はニジェール、北はリビアに接している。
国名

正式名称はフランス語で Republique du Tchad(レピュブリク・デュ・チャド)。通称 Tchad (チャド)。アラビア語で ??????? ???? (Jumh?riyyat Tsh?d)。

公式の英語表記は Republic of Chad(リパブリック・オヴ・チャド)。通称 Chad (チャド)。日本語の表記はチャド共和国[3]、通称チャド。国名の由来は、アフリカ大陸中央部の湖のチャド湖にちなんでいる。チャドは現地語で「大きな水域」という意味がある[4]
歴史
独立前詳細は「チャドの歴史」を参照

チャド地方に最初に成立した広域帝国は、9世紀ごろにチャド湖北東部のカネム地方に建国されたカネム王国である。カネム王国はサハラ交易を基盤とする国家で、南方から入手した象牙奴隷などを主に輸出していた[5]。11世紀にはイスラム教を受け入れたが、14世紀に本拠地を奪われ、チャド湖南西岸のボルヌ地方に遷都した(ボルヌ帝国)。しかし、16世紀後半にイドリス・アローマ王が現れてカネム地方を回復し、19世紀に至るまでチャド盆地の主導勢力であり続けた。この2王国は連続性があるため、総称してカネム・ボルヌ帝国と呼ばれる。チャド湖沿岸地域を本拠としたカネム・ボルヌ帝国に対し、その西には17世紀以降ワダイ王国が、シャリ川中流域にはバギルミ王国が存在し、その他に幾つかの小王国が存在していた[6]

アフリカ分割が進行していた1900年にはフランスがこの地を占領し、フランス領赤道アフリカの一部とした。植民地時代にはフランス人によって落花生綿花といった商品作物のほか、湿地帯での栽培に向くコメなどの作物が新たに持ち込まれた[7]1958年にはフランス共同体のもとで自治政府が設立され、1960年フランソワ・トンバルバイが主導して独立を達成した。
独立後「チャド国民解放戦線(英語版)」も参照

1960年に独立後、トンバルバイは与党チャド進歩党による一党制を取り、他の政党を禁止して独裁体制を敷いた。しかしトンバルバイは政権基盤のある南部のキリスト教徒を重視したため、北部のイスラム教徒が反発し、1965年末には内戦が勃発した。この反乱は北部のアオゾウ地帯領土問題を抱えるリビア政府が支援していた。1975年にはフェリックス・マルームクーデターを起こしてトンバルバイ政権を打倒したものの、政府が人口の多い南部を重視する姿勢に変わりはなく、北部の反政府軍との対立は続いた。ただ、反政府軍内でもグクーニ・ウェディ派とイッセン・ハブレ派の対立が激化しており、1978年にはマルーム大統領はハブレ派との和解を行い政府内に取り込んだものの、1979年にはこの同盟は瓦解し、結局はハブレ派が首都を制圧して、マルームは亡命した[8]

首都を制圧したハブレはグクーニ派との北部連合政権を樹立した。グクーニが大統領に就任したものの、翌1980年には対立が激化して戦闘が始まり、年末にはリビアの支援を得たグクーニ派が首都を制圧した。しかしリビア軍はグクーニとの対立から1981年11月に撤退し、主戦力を失ったグクーニ政権は1982年6月に崩壊してハブレが首都を制圧した[9]。しかしグクーニ派は再度リビアの支援をとりつけ、1983年に北部に侵攻、北緯16度線以北の砂漠地帯を制圧した[10]。この対立は1986年末に起きた、いわゆる「トヨタ戦争」によってチャド側が大きく優位に立ち[9]、1988年には停戦が成立した[10]
デビ政権詳細は「チャド内戦 (2005年?2010年)(英語版)」を参照

ハブレ政権は内戦を終結させたものの、1990年にやはり北部出身のイドリス・デビのクーデターによって崩壊した。デビは政権を安定させると民政移管と複数政党制導入の意向を示し、2度の延期の後1996年に大統領選が行われてデビが当選した[11]。デビ政権は複数政党制を導入はしたものの、その政権運営は独裁的で、2004年5月には大統領の再選回数制限を撤廃する[3]などさらに独裁的傾向を強めていった。そうした中、2005年には東部で反政府軍が蜂起し、チャドは再び内戦に突入した。

2006年4月13日、反政府勢力en:United Front for Democratic Change(FUC)がスーダンから進発し、首都ンジャメナに侵攻(en:Battle of N'Djamena (2006))。チャド・スーダン両政府間の関係は極度に悪化し、反政府勢力の首都侵攻にスーダン政府の支援があったと非難するチャド側に対し、スーダン側はダルフール紛争へのチャド側の介入を非難した[12]。5月3日には和解協定が締結されたものの[13]、2008年1月28日、FUCを含む反政府勢力・民主主義・開発発展連合(英語版)(UFDD)がスーダン国内の基地を進発し、2月2日には首都ンジャメナに侵攻した(en:Battle of N'Djamena (2008))[14]。一時は反政府軍が首都の大部分を制圧し、外国人の国外退避が行われたが[15]、3日には政府軍の反撃で首都の支配権を回復した[16]。5月11日にはスーダンとチャドが断交し[17]、6月にもチャド東部において反政府軍との激しい戦闘が起きた[18]。2010年2月にはチャド・スーダン間で和解が成立した[19]

内戦は鎮静化したものの、イスラム過激派組織のボコ・ハラムが近隣諸国で活動を活発化させるようになり、2015年2月にはチャド国内に初めて襲撃をかけ[20]、6月には首都ンジャメナで連続自爆テロが起き120人以上が死亡する[21]など、治安が大きく悪化した。

北隣のリビアを拠点とする「チャド変革友愛戦線」(FACT)も政権奪取をめざして軍事活動を行っており、2021年4月の大統領選挙に合わせて大規模な軍事攻勢を開始した。チャド軍も反撃する中[22]、イドリス・デビ大統領は、その戦闘を視察中に負傷して死亡。FACT側は攻勢を強め、一時はカネム州を「解放した」と主張したが[23]、チャド軍は2021年5月9日、捕虜156人を報道機関に公開して勝利宣言を行った[24]
政治第7代大統領イドリス・デビ。彼の政権では国際選挙監視団から不正選挙を何度も指摘されている。詳細は「チャドの政治(フランス語版、英語版)」を参照

チャドは共和制を取る立憲国家である。最後に承認された2018年憲法(英語版)は2018年4月30日に承認されたものである[25]。チャドはガバナンス(統治能力)の低さと政府の腐敗のひどさで知られており、2018年度のトランスペアレンシー・インターナショナルによる腐敗認識指数(CPI)は20.0であり、140カ国中でワースト4位(136位)となっている[26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:109 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef