チャガタイ
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すなわち、チャガタイの本来の長子は側室の息子モチ・イェベである(=庶長子)が、嫡庶の区別を重視するモンゴル社会では正妃から生まれた子供のみを記す場合が多く、嫡長子たるモエトゥケンが長男であるとも記されるようになった、と考えられている[7]。また、同様の理由からサルバンも庶出の息子であると見られている[8]。なお、『集史』の写本によってはカダカイバイジュをチャガタイの息子に数えることもあるが、これはチャガタイの孫ブリの息子を誤って挿入したものである[9]
父母・兄弟

父 
チンギス・カン

母 ボルテ

長兄 ジョチ

次弟 オゴデイ

三弟 トルイ

后妃

イェスルン・ハトゥン

テルケン・ハトゥン

氏名不明(
アラーウッディーン・ムハンマドの娘)

男子

長男 
モエトゥケン(Mo'etuken, ???????? Muw?t?k?n ) (母 イェスルン・ハトゥン)[10]

次男 モチ・イェベ(Mo?i Yebe,???? ???M?j? ?be)[11]

三男 ベルゲシ(Belge?i,?????Belgesh?)[12]

四男 サルバン(Sarban,?????? S?rb?n)

五男 イェス・モンケ(Yesu Mongke,??? ???????Y?s? M?ngk?)

六男 バイダル(Baidar,?????? B??d?r)[13]

末裔

NHK大河ドラマ北条時宗』でクビライを演じた俳優のバーサンジャブは、チャガタイの末裔であると言われる[14][15]
脚注^ 村上1976
^ 村上1976,194-196頁
^ 杉山2004,50-51/53頁
^ 村上1976,106-107頁
^ ドーソン1968,140頁
^ ドーソン1968,140-141頁
^ 宇野2012,183-184頁
^ サルバンは一般にチャガタイの第4子で弟にイェス・モンケとバイダルがいたと記されるが、別の箇所ではイェス・モンケが第3子であったとも記している。これも庶出の子(モチ・イェベ、サルバン)を外して嫡子のみを数えた場合、イェス・モンケが第3子になるため生じた混乱であると考えられている(宇野2012, 176頁)
^ 『集史』には「初版系」の写本テキストと「増補版系」の写本テキストがあるが、前者ではカダカイとバイジュをチャガタイの息子とするが、後者は息子と扱わない。これは、「増補版」の編者がチャガタイの息子について正確な情報を得て修正を施した結果であると見られる(川本2017,83-87頁)
^ モエトゥケンには、バイジュ、ブリ、イエスン・トゥア、カラ・フレグという4人の息子がいたことが知られている。うち、ブリはバトゥの東欧遠征に従軍したがグユクとともにバトゥと諍いを起こし、これが原因でモンケが即位した時、反乱を企てたとして処刑されている。モエトゥケンはチンギス・カンのホラズム・シャー朝遠征に加わったが、バーミヤーンを包囲中に流れ矢を受けて戦死した。このため、チャガタイは後継者をモエトゥケンの四男だったカラ・フレグを選んだ。
^ 母は名前不詳。イェスルン・ハトゥンに仕えた下女であったという。
^ モエトゥケンが亡くなった時、チャガタイはこのベルゲシを後継者にしたが、ベルゲシも13歳で亡くなったため子孫がいなかった。
^ 第5代当主アルグの父で大元ウルスチュベイ王家の父祖。ジョチ家のバトゥの東欧遠征に従軍した。
^巴森:再?成吉思汗?采(??) 新浪网 (中国語)
^北方新?网 中国蒙古学信息网 (中国語)

参考文献

C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』第1巻(佐口透 訳註、東洋文庫 110)平凡社、1968年

C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』第2巻(佐口透 訳注、東洋文庫 128)平凡社、1968年

宇野伸浩「『集史』 第 1 巻 「モンゴル史」 の諸写本におけるチャガダイ・カンの息子達の順序の混乱」『人間環境学研究』、2012年

川本正知「チャガタイ・ウルスとカラウナス=ニクダリヤーン」『西南アジア研究』86号、2017年

杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年

村上正二『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』第3巻(東洋文庫 294)平凡社、1976年

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