チャガタイ・ウルス
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チンギスがチャガタイに与えた4つの千人隊は、チャガタイ王家に代々継承されていった[9]。チャガタイの下に置かれた遊牧民は、モンゴル帝国が征服事業によって獲得した農耕・定住文化圏には入らなかったと考えられている[10]

チンギスの三男オゴデイの治世、チャガタイの領土はハンガイ山からジャイフーン川の間に広がり、チャガタイは伝統的なモンゴルの法律(ヤサ)の遵守に務めた[11]。チャガタイは春と夏の期間はアルマリクとクヤスにオルド(幕営地)を置き、秋と夏にはイリ河畔に滞在した[12]。チャガタイの宮廷にはジャルグチ(裁判官)、宰相、書記などの官人が仕えていたことが伝えられている[13]。中央アジアのうち、イスラム教徒が定住する地域はダルガチ(行政総督)のマフムード・ヤラワチマスウード・ベク親子によって統治され、戦争で荒廃した都市の復興が進展する[14]。チャガタイの直接の支配は遊牧民にのみ及び、定住民からの徴税はカラコルムの中央政府直属のヤラワチ親子が行っていた[15]

帝国中央で起きた権力闘争にしばしばチャガタイ・ウルスは巻き込まれ、歴代のカアンやオゴデイ家のカイドゥの干渉を受ける。チャガタイは存命中に息子モエトゥケンの遺児カラ・フレグをウルスの後継者に指名し、1241年にチャガタイが没した後、カラ・フレグがウルスを相続する[16]。オゴデイの跡を継いカアンとなったグユクはチャガタイの子イェス・モンケを支持し、カラ・フレグに代えてイェス・モンケをウルスの支配者に任命する[16]1251年にモンゴル帝国の主権がトゥルイ家に移るとチャガタイ家、オゴデイ家の勢力は削減され、中央アジアはカアンに即位したトゥルイの長男モンケジョチの長男バトゥによって分割される[14][17]。モンケはカラ・フレグをウルスの統治者に復帰させ、カラ・フレグがモンケの元に赴く途上で没した後には彼の妃であるオルガナが代わりに政務を執り、モンケの命令に従ってイェス・モンケを処刑した[18]。モンケの即位の後、チャガタイ家の王族の多くが失脚し、所領のほとんどが没収される[19]。モンケはオルガナにウルスの統治を委ねたが、事実上オルガナはモンケの傀儡でしかなかった[17]

モンケの死後に彼の弟であるクビライアリクブケがカアンの地位を主張して争い(帝位継承戦争)、オルガナは1260年にカラコルム西のアルタン河畔で行われたアリクブケをカアンに選出するクリルタイに参加し、アリクブケを正統なカアンとして認める態度を表した[20]1261年にアリクブケはチャガタイ家の傍流出身のアルグをチャガタイ・ウルスに送り込み、物資の輸送と引き換えにウルスの当主の地位を約束した[21]カシュガルで権威を確立したアルグはジョチ家からマー・ワラー・アンナフル地方のオアシス都市を奪回し、アフガニスタン北部に進出する[22]。オルガナから実権を奪ったアルグは約束に反してアリクブケに敵対する姿勢を見せ、チャガタイ家の勢力を削減したモンケ政権とそれを継承するアリクブケ政権、彼らの傀儡であるオルガナに不満を抱く王族・将軍はアルグを支持した[23]。アリクブケの軍隊の攻撃によってアルマリクは占領され、アルグはサマルカンドに退却するが、捕虜としたチャガタイ家の兵士を殺害したアリクブケの行動に憤慨したアリクブケ側の将校の大部分がクビライに投降した[24]。アリクブケに勝利したクビライは1266年に改めてクリルタイを開催するため、アルグ、イランイルハン朝を建てた弟のフレグジョチ・ウルスベルケに呼びかけるが、3人が相次いで没したためクリルタイは実施されなかった[25]
カイドゥ王国への編入と独立

アルグの死後、彼の妃となったオルガナによってカラ・フレグの子ムバーラク・シャーがウルスの統治者の地位を継承した[26]。クビライは自分の宮廷に滞在していたモエトゥケンの孫バラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣するが、バラクはムバーラク・シャーを廃位し単独統治者となる[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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