チベット自治区
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

中国政府および中国に所属するマスコミ、仏教団体、民間団体等が日本語でチベットの自治区について発信する際には「チベット自治区」という表記を用いることから、日本政府の関係資料や日本のマスコミ、の用法でも「チベット自治区」の呼称を用いる事例が多く見られ[6]、政治的単位としての「チベット」の呼称を、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区(西蔵自治区)の領域の部分に対して用いる事例もしばしば見られる[7]。中国政府のチベット政策に反対する亡命政府や彼らに資金・物資・人材の支援を行う機関は、「チベット」をチベット(西蔵)自治区の領域に限定する主張に対して異議を唱えている[8][注 3]
歴史詳細は「チベットの歴史」を参照
「西藏」の成立

中国内地に成立した政権、中国内地を征服し中国内地に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、フビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくはチベットを参照)。

雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を青海アムド)地方において30の「」に編成して理藩院の管轄下に置き、その属領を二分してタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する甘粛省四川省雲南省などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の土司職の称号を与え、兵部を通じて支配下に置いた。

グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。
「西康地方」の成立から廃止までダライ・ラマ13世

雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年ヤングハズバンド率いる英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、趙爾豊ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年ラサに到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「」の設置に取り組もうとした。

しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。

チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。

中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までにアムド青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足させた。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。

中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた南昌地区は、雲南地方に移管された。この「自治区」は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれ、中国によるチベットの行政区分は、雍正期以来の状況に回帰することとなった。
チベット動乱と西藏自治区の成立「チベット問題」、「1959年のチベット蜂起」、および「2008年のチベット騒乱」も参照ダライ・ラマ14世

チベット政府が「西藏和平解放」によって締結を強要された「十七か条協定」は、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰」するものと規定するものであったが、ダライラマを初めとするチベット政府の各級職員が引き続き「西藏」部分の統治を担い「改革は強要されない」という規定もあった。しかしながらこの協定の適用範囲はあくまでも「西藏」地方に限定され、その他のチベット各地では中国内地で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」が、1950年代半ばから強行されることとなった。

「改革」が諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、反発も少なく歓迎する民衆も少なく無かったが、対象が寺院僧侶に向うと、チベット人の反発は大きくなり、1956年からアムド・カムの各地で中国支配に反発する蜂起が始まった。1959年に頂点を迎える「チベット動乱」の勃発である。詳細は「チベット動乱」を参照

蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、鎮圧の為に中国軍が組織されると、各地の蜂起軍は西藏地方へ逃れ、難民も発生した。蜂起軍は西藏に於いて、統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国政府に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。

争乱は1959年にラサに波及、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命しチベット亡命政府を樹立した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef