この領域は、チベットの伝統的な地域区分にいう「ウー・ツァン」(ガリー・ウー・ツァン・コンポ・タクポ・三十九族・チャンタン)およびカム地方の西部などに相当し、中国政府はこの領域上にラサ市、山南市、シガツェ市、ナクチュ市、ガリ地区、ニンティ市、チャムド市などの市、地区を設置している。自治区の歴代の長官については「西蔵自治区人民政府主席」を参照 この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2008年5月) 中国の公認された少数民族としてのチベット族(蔵族)の居住領域に設けられた民族自治区とされるが、チベット自治区の領域は歴史的・文化的なチベット地域のうちの、中国領に内包される部分の一部で、歴史的に西蔵と呼ばれてきた地方を占めるのみ[注 2]であり、中国語による名称は「西蔵自治区」という。 一方、日本語では戦前から英語の「Tibet」の訳語として「西蔵」と漢字表記し、「ちべっと/チベット」とルビをふる慣用が用いられており[4]、「この地理的範囲は(中略)青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している」と理解されていた[5]。日本におけるチベット学研究者たちが1953年に組織した学会は、この慣用にもとづき「西蔵と漢字表記し、チベットとルビをふる呼称」を学会の名称に用いてきたが、2009年に「日本チベット学会」と表記を改めた。中国政府および中国に所属するマスコミ、仏教団体、民間団体等が日本語でチベットの自治区について発信する際には「チベット自治区」という表記を用いることから、日本政府の関係資料や日本のマスコミ、の用法でも「チベット自治区」の呼称を用いる事例が多く見られ[6]、政治的単位としての「チベット」の呼称を、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区(西蔵自治区)の領域の部分に対して用いる事例もしばしば見られる[7]。中国政府のチベット政策に反対する亡命政府や彼らに資金・物資・人材の支援を行う機関は、「チベット」をチベット(西蔵)自治区の領域に限定する主張に対して異議を唱えている[8][注 3]。 中国内地に成立した政権、中国内地を征服し中国内地に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、フビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくはチベットを参照)。 雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴル グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。 雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年、ヤングハズバンド率いる英領インド軍
チベットと「西蔵」の領域
「チベット」、「チベットの領域に関する認識と主張」、および「中華人民共和国によるチベットの分割と再編」も参照
歴史詳細は「チベットの歴史」を参照
「西藏」の成立
「西康地方」の成立から廃止までダライ・ラマ13世
しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。