ブータンの国土は、標高3500 - 7000mの山地が占める北部と、中央部、インド平原に連なる南部からなるが、チベット系の人々は、主として中央部に居住し、南部地方ではネパール系住民が多数を占める。
ブータンにおいてはチベット語に近縁なゾンカ語を母語とするガロン(英語版)(Ngalong)が人口の筆頭を占めるが、狭義のチベット民族(蔵族)は数千人に過ぎない。 チベット語を話す。通常、チベット語はウ・ツァンチベット語、アムド・チベット語、カム・チベット語の3語を指す。ラサ方言は標準チベット語と言われる。 宗教としては大多数が、8世紀に国教と定められたチベット仏教の信者であるが、近年では世俗化が進んでいる。またボン教やイスラム教の信者もいる。 チベット民族は月の質に基づいて日、月、年を計算する独自のカレンダーを使う。何世紀にもわたる開発の後、 チベット暦は成熟したシステムになった。 チベットでは、D1a1a-M15が16%、D1a1b?P99が33%、とD1a1-Z27276系統だけで約半数の49%を占めている[3]。別の調査では、ハプログループDが42.9%、ハプログループO2が40.0%、ハプログループNが8.6%、ハプログループR1a1が8.6%である[4]。ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみである(日本では32%前後、沖縄では55%前後、アイヌでは88%前後、チベットでは約30?50%、アンダマン諸島南部では73%)。ただし、それぞれの地域でタイプは異なっており(アンダマン諸島(ジャラワ族、オンゲ族)はパラグループD1a3、日本列島(大和民族、アイヌ民族、琉球民族)はハプログループD1a2、チベット民族はハプログループD1a1)[5]、各々の分岐年代は少なくとも3.5万年以上前である[6]。またチベット人からはD系統とE系統の祖形DEから直接分岐したDE*もわずかに観察されている[7]。 5世紀頃からホタン方面から入ってきた遊牧民の政権が王国を建設した。テュルク諸語やモンゴル語などではトベットとよび、漢文では吐蕃と記される。7世紀頃に盛強となる。その後も異民族による直接支配を受けたことがなく、1642年にはダライ・ラマ政権が成立した。 1723-32年の「雍正のチベット分割」により、チベットの東部(アムド全域・カム東部)の諸侯は分割されて青海およびチベットに隣接する甘粛・四川・雲南に分属し、西寧弁事大臣
言語
文化・宗教
遺伝子
父系遺伝子ハプログループD、C、Fの分布
その他(英語版
歴史詳細は「チベット#歴史」および「チベット問題」を参照
1912年の辛亥革命により清国が滅亡すると、ガンデンポタンはチベット全土の奪還を目指して東征の軍を起こしたが、甘粛・青海を掌握する馬氏政権、四川・雲南の地方政権などに阻まれた。その後、中華民国の全時期(1912-1949)を通じ、中国の地方政権がチベットの東部を分割支配し、チベットの西部・中央部をガンデンポタンが掌握するという形勢は変わらなかった。
1949年に建国した中華人民共和国は、まず1949年から1950年にかけて中華民国の諸地方政権が支配していたチベット東部を掌握、ついで1950年にガンデンポタン治下のカム地方の西部に侵攻、翌1951年にはガンデンポタンを屈服させて(十七ヶ条協定)チベットの西部・中央部を制圧した(いわゆる西蔵和平解放)。1955年、チベットの東部で勃発した抗中蜂起は1959年中央チベットに波及、1959年3月10日のラサ市民の蜂起、中国軍による鎮圧をへて[9]、チベットの君主ダライ・ラマ、チベット政府ガンデンポタン、約10万人の難民がチベットを脱出し、チベットの全土が中国の直接統治下に組み込まれた。