チェ_(映画)
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ベニチオ・デル・トロは、2009年2月、スペイン版アカデミー賞(『ゴヤ賞』)の最優秀主演男優賞を受賞した[2]

なおデル・トロは、アメリカ領プエルトリコで育ったこともあって、幼い頃からチェ・ゲバラは「悪者」だという認識を抱いていた[3]が、『007 消されたライセンス』(1989年)のロケでメキシコに行った時に偶然ゲバラの書簡集を読み、深い感銘を受けた。以降は認識を改め、ゲバラの人生に強く興味を持ったという[4]

撮影前には、ゲバラの著書を読んだり、ゲバラの2番目の妻アレイダ・マルチ(英語版)やアルゼンチン在住の弟や妹などと会い、革命活動以外のゲバラの素顔を知った[5]。更に自らキューバへ赴き、関係者への証言を得るなど、7年を費やして[6]、徹底的にゲバラを研究し尽くした。キューバを訪れた際には、フィデル・カストロと5分間だけ面会できたと言う[6]。ゲバラに関するリサーチは、ゲバラの日記、ボリビア滞在時に書いたメモ、果てはニューヨークへ行く際にアメリカ国務省が作成していた公文書(機密指定が解かれたもの)にまで及んだ[7]

撮影は2007年5月から開始され[8]、デル・トロは撮影に際し、25kgの減量をして[9]、ゲバラになり切った。

デル・トロは共同プロデューサーのローラ・ビックフォードと共に、キューバ革命とボリビアでゲバラと共闘し、生き残っているポンボ(ハリー・ヴィジェガス)(英語版)、ウルバノ(レオナルド・タマヨ・ヌニャス)、ベニグノ(ダリエル・アラルコン・ラミレス)ら3名と会った[7]。彼ら3人に個々に話を聞き、ポンボとベニグノはキューバとボリビアでの体験を語ってくれた。ウルバノはスペインでの撮影アドバイザーを務め、どのように銃を構えていたか、など俳優たちの細かい相談に乗った[7]

本作のコンサルタントを務めているのは、最も代表的なチェ・ゲバラの伝記で、世界の多くの国で翻訳・出版されている『Che:A Revolutionary Life』の著者であるジョン・リー・アンダーソン(英語版)である。彼の製作スタッフインタビュー『チェの伝記著者が語る、ボリビア戦争の真実』は、『チェ2部作 コレクターズエディション』の映像特典中に収録されている。
あらすじ

『チェ 28歳の革命』

1964年5月。革命後のキューバの要人として、首都ハバナで女性インタビュアーの取材を受けるゲバラ。過去の様々な場面を回想しながら、物語は進んでいく。

1955年7月、キューバ人の革命家フィデル・カストロは、亡命先のメキシコシティで密かに同志を募っていた。キューババティスタの独裁政権に支配され、貧富の差は広がるばかりだったのだ。アルゼンチン人の青年医者エルネスト・ゲバラは、カストロの言葉に共鳴し、翌年、カストロと共にキューバに密航した。

1964年12月のニューヨーク。ゲバラはキューバ主席として国連本部の総会で演説するために渡米した。このニューヨークの訪問と、7年前の1957年のキューバでのゲリラ活動が交互に語られて行く。

1957年3月、喘息の発作に苦しみながら、キューバのジャングルを進む戦闘服のゲバラ。反乱軍の仲間からは、すでに「チェ」と愛称で呼ばれているが、彼はまだ任務をうまくこなすことが出来ない。外国人である引け目が遠慮を生んでいるのだ。

同5月、カストロ率いる反乱軍は政府軍の兵営を襲って、その力を見せつけた。6月の戦闘では、ゲバラは志願して本隊から離れ、治療が必要な負傷兵たちを引き受けて危険地帯に潜伏した。この時の困難な負傷兵の移送作戦で、真の戦士に成長したと語るゲバラ。

1964年のニューヨークでテレビに出演し、支持者のパーティーに出席して、キューバの立場を語るゲバラ。交互に語られる1957年のゲバラ達は、戦いを続けている。カストロは革命後の臨時政府の方針を創案し、都市の活動家たちと協定を交わした。ゲリラたちは内心では、都市で起こっている「ゼネストによる政権崩壊」の運動を軽んじていたが、目指すところは同じなのだ。

ゲバラの指揮官としての能力は高かった。しかし、カストロはゲバラに新兵のための訓練キャンプを任せた。カストロはゲバラを革命後に必要な人材と考え、その命を惜しんだのだ。それは降格人事だったが、ゲバラは受け入れた。

1958年5月、カストロはキューバで活動する複数の反乱軍の総司令官に任命された。都市でのゼネストが鎮圧され、個々の武装勢力は結束する必要を痛感したのだ。

1964年のゲバラは国連本部での演説を成功させ、ソ連が率いる社会主義陣営の支持を求めた[10]。1958年のキューバでは、反乱軍同士の勢力争いが表面化していた。カストロが率いるゲリラ部隊は「7月26日運動(M-26-7)」という名称だったが、その政策の核である農地改革に反対する者も多かった。カストロは反乱軍の意思統一を急ぎ、ゲバラを軍の全勢力をまとめる司令官に任命した。

山岳部が主だったゲリラ戦は、ラス・ビリャス州の都市部へと移行した。市民はゲリラを歓迎し、主要都市が次々と制圧されて反乱の動きは加速していった。左腕を骨折したゲバラには、アレイダという女性兵士が付き従うようになった[11]

独裁者バティスタは、最後に残った都市サンタ・クララに政府軍を集結させた。そこを落とせば首都ハバナは目の前だ。ゲバラは援軍を待たずに市内に進軍し、ラジオで市民に共闘を呼び掛けた。政府軍は市民の住む町への空爆を強行し、激戦が続く中、軍や警察からは降伏する者が出始めた。

サンタ・クララの司令官は逃亡を図り、ついにバティスタが国外へ亡命した。


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