チェ・ゲバラ
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広島訪問を熱望した理由は、ゲバラにとって広島は原爆で壊滅的な被害にあった後、驚異的な復興を遂げていた奇跡の街[5]。キューバの国を再建するヒントにしたかったという説[5]、米帝国主義と戦うキューバ、その中でカストロ首相に次ぐポストにあるゲバラにとって、"アメリカの手によるヒロシマの惨劇を自らの目で確かめ、無数の非戦闘員を含む犠牲者の霊をキューバ革命政府の名で弔いたかったのでは、という説などがある[2]。急ぎ外務省の大阪事務所が広島県庁に電話し、一行の対応を要請[1]。岩国に車で出迎えた広島県庁職員案内の下、途中、廿日市市宮島口で車を停め、日本有数の名勝を対岸から見学[1]。ゲバラ一行は宮島口で写真に収まったが、その際、和服の女性が通りかかり、ゲバラは日本で初めてキモノを見たと喜んだ[1]。宮島口に寄ったのは、献花用の花を新広島ホテルのフロントに持ってくることになっていた予定が間に合うかを気にしてのことだった[1]。午後2時過ぎに新広島ホテルに到着。近くの広島平和公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し[2]原爆資料館を約1時間見学[1]。ゲバラは館内に展示された原爆の惨禍の凄まじさに同情と怒りを見せ[1]、それまで終始無口で通していたゲバラが突然、広島県庁職員・見口健蔵に対して英語で「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と言った[1][2][8]。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下を取り上げている[2][9]。その後原爆病院を訪れ[2]、当時紙屋町の住友銀行広島支店の入り口前にあった"死の影"(人影の石)にも接した[2]。また当時の広島県知事大原博夫と会談している[2][10]。娘のアレイダ・ゲバラも2008年、2010年に[11][12]、2017年8月には息子のカミーロ・ゲバラ(アレイダの弟)も広島を訪問している[13]。ゲバラは日帰りを予定していたが、帰りの飛行機が満席で、7月25日夜は新広島ホテルに宿泊した[1]。この日「革命家なら-この地を訪ねるべきだ」などと書いたキューバの妻宛てに広島から投函した絵葉書が現存している[2][3][12]。翌26日朝、朝10時発の列車で広島駅を立った[1]。大阪から空路で東京に戻り、7月26日はキューバの革命政府にとって記念日にあたるため、麻布プリンスホテルで「7月26日運動」記念パーティに出席[1]。27日夕方5時に外務省で日本側と最後の交渉を行い、帰路に着いた[1]。ゲバラが日本で受けた最大の感銘は、広島訪問だったといわれ[1][2][3]、帰国後、ゲバラは日本を語るとき、ヒロシマを必ず口に出した[2]。ゲバラが自らが発案して広島を訪れたことを切っ掛けとして、キューバをはじめラテンアメリカ諸国でヒロシマへの関心が広がっていったとされる[2]

このゲバラの広島行に関しては、「神戸市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かった」という説もある[2]。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか[1]、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。日本語の全く分からない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、夜行列車で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚色である可能性が高いと考えられている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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