チェ・ゲバラ
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12月11日国際連合総会でキューバ主席として演説[24]7月26日運動の合言葉『祖国か、死か!』を紹介する。

1965年 国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは一時的に闘争(コンゴ動乱)に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラから自分宛に遺された「別れの手紙」を発表。

1966年 コンゴ動乱から引き揚げ、チェコスロバキアのラードビー(プラハの南東25キロにある町)に3月から7月まで、チェコ情報機関に匿われ滞在。「一つ、二つ……数多くのベトナムをつくるために」(1967年に公表されたメッセージの言葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビアへ。ボリビアでの様子を記した日記は『ゲバラ日記』として死後刊行。

1967年10月8日 ボリビアのバジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。39歳没。

1997年 死後30年目、ボリビアで遺骨が発掘され、ハバナに移送された。

2004年1月25日 米国俳優ロバート・レッドフォードが、ゲバラの著作『モーターサイクル南米旅行日記』(邦訳・現代企画室)と、ゲバラの友人アルベルト・グラナードの著作『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(邦訳・Gakken)を下敷きにプロデュースした新作映画モーターサイクル・ダイアリーズ』を携え、ハバナを訪問。遺族やハバナ市民が映画を鑑賞した。

2007年10月8日 没後40周年式典や追悼式典がキューバのサンタクララなどで行われる。

2008年?2009年 死の二日前まで記された日記『Reminiscences of the Cuban Revolutionary(革命戦争の経過)』(邦題:『革命戦争回顧録』)を基にした映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』が世界中で公開される。

2010年5月22日、ゲバラを逮捕したボリビア陸軍のガリー・プラド (Gary Prado) 元将軍が、ボリビア東部の分離独立を画策するために右派の民兵組織を結成した容疑で、自宅軟禁措置を受けた。プラドは容疑を否認している。

2011年6月14日、生誕83年にあたるこの日、永らく発表されていなかったキューバの革命戦争の時の日記がオーストラリアのオーシャン・プレス社から出版された[25][26]

人物アメリカの爆撃で沈没した貨物船「ラ・クブル号」の犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)とゲバラ(右から2人目、背広服の人物の向かって右側)

誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農民にも、資格として読み書きができる成年者であることを最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。

フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノンには「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。逆に親米反共主義の諸国・人々の間では評価されていない。

「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義人民戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる道とし、アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 (La Guerra de Guerrillas)』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。また理想主義者でもあり、工業相時代にキューバ国民の労働意欲の低さを目の当たりにし、(これはキューバに限らず、彼の出身国アルゼンチンも含めたラテンアメリカ全般に言えること)「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。彼の言葉「何キログラムの肉が食べられるか、あるいは一年に何回休みの日に海岸に遊びに行けるか、あるいは現在の給料でどれほどの美しい輸入品を買えるか、それは問題ではない」[27]に象徴されている。キューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者たちからは「理想論に過ぎる」と反発を招くとともに、現実的な政治路線を目指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤立させる遠因となった。彼の直接行動主義と理想主義は、前者は一面として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼自身のゲリラ闘争の障害となった。一方で後者は彼の自己犠牲的な行動力と相俟って、「清廉で理想に燃えた革命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。

喘息持ちでありながらも葉巻の愛好家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けにも用いられた。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。酒は飲まず(後述の#語録でも明言されている)、マテ茶(アルゼンチンの国民的飲料)が好物。父親がマテ茶をプランテーション事業で手がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。

趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラは1954年に発売されたニコン S2(レンズはNikkor-N 5cm f1.1)を愛用していたが、革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。上記のS2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。
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