10月25日、民間人の服装の米軍憲兵隊士官2人が公用車のナンバープレートを付けた車で検問所に現れた。警備隊が旗を振って合図して停車させると車は引き返したが、今度は護衛を伴って現れて検問所を訪れた。再び引き返すと今度は米軍の戦車が登場し、米国側は再三にわたって自国の外交権を示威した[注釈 2]。翌26日以降も示威行動を繰り返し[5]:277、27日も文民公務員の車を兵士が護衛して東ベルリンに入り込んだ。この時、念のために戦車を歩兵部隊とともに近隣のテンペルホーフ基地へ事前に送っていたが、東ベルリン側の態度は特段挑発的なものではなかったため、安心した米軍は午後4時45分に引き返し、後方で待機していた戦車も帰還した。
ところがこの直後、ソ連のT-54(国籍マークが外されていたため、当初米軍は東ドイツの戦車かもしれないと思っていた)が33台、ブランデンブルク門へ出動した。これらの戦車のうち10台がフリードリヒ通りを進み、チェックポイント・チャーリーの米ソ境界線まで50 - 100メートルのところで停止した。米軍は慌てて撤収した戦車を反転させ、境界線までソ連軍戦車とほぼ同じ距離の位置まで進めた。午後6時頃にチェックポイント・チャーリーを挟んで両軍の戦車は対峙した[注釈 3]。この状況を現場で取材中の西側記者が目撃して、『ワシントン・ポスト』紙の記者は「世界最大の強国である二つの大国の軍隊が、史上初めて直接の敵対的対決で向かい合った」と書いた[10]。
その後、両軍は互いに同数の戦車を増援させ、最終的には互いに20両の戦車を現場に動員した。米軍はM48パットン戦車が4両、さらに400メートル後方に4両を待機させ、この他に5両の兵員輸送車と5台のジープを出動させていた[11]。ベルリン駐在の米軍は全将兵6,500人が警戒態勢に入った。英仏両国も即座に応援態勢をとり、仏軍は3,000人の兵士全員を兵舎に待機させ、英軍はブランデンブルク門近く550メートルほどの地点に対戦車砲を配備し、武装パトロール隊を有刺鉄線によるバリケードの間際まで進出させた。
クレイは、もし東側がこの行動に対してフリードリヒ通りを全面的遮断で対抗してきた場合はベルリンの壁の一部を破壊する実力行使に出る旨を国務省宛てに送っており、NATO軍最高司令官のノースタッドとベルリン駐在米軍司令官のワトソンも承認していた。しかしラスクは撤退命令を出した。ラスクは今回の行動について「ベルリンに入る権利は強硬手段に訴えるほどの決定的権益ではない。壁の構築を容認したのも同じ理由からである。我々はこの事実をお互い率直に受け入れなければならない」としてこれ以上の行動を認めなかった[12]。
しかしこの時期のケネディは、ベルリン問題で同盟国間でもシャルル・ド・ゴール仏大統領ともコンラート・アデナウアー西独首相とも意見の相違があって調整に苦しんでいた時期であり[注釈 4]、チェックポイント・チャーリーのような小さな検問所でのトラブルでリスクを冒す余裕はなかった。
一方フルシチョフはまだソ連共産党大会の期間で、壁の建設でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることはないと確信していた。コーネフ元帥の報告を聞いて、「戦争なんて起こるわけはない」と語った[14]。
ケネディとフルシチョフはベルリンの米軍部隊本部と東側の検問所(ソ連軍司令官アナトリー・グリブコフ将軍への直通回線)を経由して秘密裏に連絡を取り、緊張状態を緩和させることで合意した。ケネディは、ソ連側が先に戦車を引くという条件と引き換えに、以後ベルリン市内におけるソ連側の行動について大目に見ようと提案した。ソ連側はこれを外交上の勝利と受け止め、ケネディの申し出を承諾した。
10月28日、10時30分にソ連軍戦車がチェックポイント・チャーリーから引き揚げ始めた。30分後に米軍戦車も撤退を開始し[15]、およそ18時間ぶりに両軍の対峙は解かれた。撤退と同時にラスクはベルリンに電報を送り、これまでの武装護衛あるいは兵士の警護による境界線通過の試みの中止、文民公務員の当分の間の東側への通行を禁止、軍人が通過する場合は全員が公用車で制服着用の義務付けを厳格に守るように指示した。そして「当該地点においてこれ以上の行動はしない」よう念を押した[16]。事態をエスカレートさせたクレイは、翌1962年5月に本国に召還された[16]。またフルシチョフも米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めて釘を刺した[17]。 1962年8月17日、東ドイツ人のペーター・フェヒターという18歳の青年が、チェックポイント・チャーリー近くの壁をよじ登って西側へ脱走しようとしたところ、これを発見した東ドイツの警備兵に銃撃された。背中に弾を受けて壁から落ちたフェヒターは、有刺鉄線のフェンスに絡まるように倒れこみ、西側のジャーナリストを含む数百人が見守る中、そのまま失血死した。彼の身体は境界線から数メートル東側にあったため、アメリカ軍の兵士は救助することができず、また東ドイツ警備兵も西側の兵士を刺激することを恐れて、フェヒターに近寄ることを躊躇した。結局、フェヒターの遺体は1時間以上経ってから東ドイツ兵によって回収された。
ペーター・フェヒター事件