チェチェン共和国
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ソビエト連邦解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国カフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続き、二度のチェチェン紛争と独立派のテロリズムが発生した歴史がある。
チェチェン共和国成立までロシア軍に投降するイマーム・シャミール1859年

18世紀ロシア帝国がカフカースへの南下を進めると、チェチェン人はロシアの支配に対して激しく抵抗を繰り広げたが、1859年にロシア帝国によって周辺地域とともに併合された(コーカサス戦争)。これによってロシア帝国とオスマン帝国の取引により多くのチェチェン人がトルコやシリア、ヨルダン等へと移住した。

ソビエト連邦の成立後、チェチェン・イングーシ自治共和国としてロシア・ソビエト社会主義連邦共和国の一部とされたが、第二次世界大戦中の1944年に、対ナチス独協力を懸念したヨシフ・スターリンによって、多くのチェチェン人とイングーシ人はカザフスタンシベリアへ強制移住させられた。彼らは1957年フルシチョフにより母国への帰還を許され、自治共和国が再建されるが連邦政府に対する不満は残った。
チェチェン共和国成立以降

チェチェン人たちが1990年11月にチェチェン・イングーシ自治共和国のソ連からの独立を宣言し、1991年5月にチェチェン・イングーシ共和国に改名し、10月に共和国と連邦政府の間でソ連からの独立は認めないまでも共和国をチェチェン共和国とイングーシ共和国に分割することで同意すると、翌11月に当選したばかりのチェチェン共和国初代大統領ジョハル・ドゥダエフがソ連からの独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言した。ただしソ連邦はこれを認めなかった。
第一次チェチェン紛争首都グロズヌイ近郊に展開するロシア軍(1994年

1991年12月のソビエト連邦の崩壊後のロシア連邦政府もチェチェン・イチケリア共和国の存在を拒絶し、1994年12月にロシア連邦大統領ボリス・エリツィンはチェチェンの連邦からの独立を阻止するため4万のロシア連邦軍を派遣し第一次チェチェン紛争に突入した。独立派はゲリラ戦で激しく戦い紛争は泥沼化したが、1995年2月にロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイを制圧し、1996年4月にジョハル・ドゥダエフの殺害に成功すると、8月にエリツィンとチェチェンの武装勢力のリーダーの間で停戦が合意された。そして1997年5月にはハサヴユルト協定が調印され五年間の停戦が定められた。この紛争では10万人以上の一般市民の死者を出した。
第二次チェチェン紛争

停戦中の1999年8月7日に、カフカース圏における「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン独立派の最強硬派のシャミル・バサエフサウジアラビア生まれでヨルダン出身のアミール・ハッターブが、和平協定を破り突如隣国のダゲスタン共和国へ侵攻。また、同月と翌9月にモスクワアパート連続爆破事件が発生した(ロシア諜報機関による偽旗作戦の疑惑あり)。このため、首相ウラジーミル・プーチンはロシア軍をチェチェンへ進撃させ1999年9月に紛争は再開。1997年の和平協定は無効となった。プーチンはエリツィンの健康悪化により1999年12月に大統領代行に就任し、2000年に大統領に正式に就任した。

この第二次チェチェン紛争でロシア軍は2000年に首都グロズヌイを再び制圧した。ロシアはアフマド・カディロフをチェチェン共和国の大統領につけてロシアへの残留を希望する親露派政権をつくらせ、独立派のチェチェン・イチケリア共和国を在野に追った。しかし以降もチェチェンの独立運動は続き、ロシア軍との内戦状態が続いた。ゲリラ化したチェチェン独立派勢力はアルカーイダ等の国外のイスラーム過激派勢力と結びついてテロリズムに走っているといわれており、紛争はさらなる泥沼化に進んだ。テロのターゲットとなったベスラン学校

独立派の関与したとされる事件は、犯行声明が出されているものだけでも2002年10月のモスクワにおけるドゥブロフカ劇場占拠事件、12月のグロズヌイの行政府ビル爆破事件、2003年6月のモスクワ野外コンサート会場爆破事件、2004年5月のカディロフ大統領暗殺事件、8月の旅客機同時ハイジャック事件、モスクワ地下鉄駅付近爆破事件、9月の北オセチア共和国ベスランにおけるベスラン学校占拠事件などがある。

これに対してプーチン政権は、2003年から2006年にかけて独立派のチェチェン・イチケリア共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフと第3代アスラン・マスハドフと第4代アブドル・ハリムを殺害し、独立にむけた武装闘争に対しては徹底的に鎮圧する意思をいっそう明確にした。またロシア政府は2005年11月に共和国議会選挙を開催させ、「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」としてこの結果を評価した。これに対して正常化に向けた前進と評価する意見が存在する一方、独立派はロシアによる「翼賛選挙」であると強く反発している。

2006年6月には、イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致し、チェチェン共和国からのロシア部隊撤退などを同国政府に要求。その後、要求が受け入れられなかったため、外交官を殺害するという事件も発生する。

2007年に独立派によるモスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロ(ロシア語版、英語版)がおきた。

2009年5月、ロシア連邦政府はチェチェンでのテロ活動が沈静化したとして、「反テロ特別治安体制」を終了すると宣言し、ここに第二次チェチェン紛争が終結した。ロシア軍により20万人近くのチェチェン人が犠牲になり、4分の1のチェチェン人が死んだと言われている。長引くチェチェン紛争に対しては、ロシア国内からも様々な意見が出されている。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」とアメリカ下院でエレーナ・ボンネル(反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士未亡人)は証言をした。
第二次チェチェン紛争終結後

第二次チェチェン紛争は終結したと言うものの、チェチェン国内ではテロに対する厳重な警戒体制が採られている。また、イスラーム過激派自体もチェチェンから近隣の共和国に拠点を移しただけと言われる。2009年11月に再びモスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロ(ロシア語版、英語版)が、2010年3月にモスクワ地下鉄爆破テロが、2011年1月のドモジェドヴォ空港爆破事件が独立派武装勢力により引き起こされている。これらの事件では独立派武装勢力のカフカース首長国のアミールドク・ウマロフから犯行声明が出されている。ただし、ロシア政府はチェチェンとの関連を否定している[要出典]。
2013年ボストン爆弾テロ以降

ボストンマラソン爆弾テロ事件で、イスラーム過激主義の2人のチェチェン人が容疑者と認定されると、チェチェンへの関心は高まった。

ウラジーミル・プーチンはチェチェン人独立がイスラーム過激派によりもたらされているとして、ロシア連邦軍のテロ対策の正しさを強調した。
ウクライナ内戦

2014年より始まった2014年ウクライナ内戦にチェチェン人が多数親露派義勇軍として参戦していると報道された。[1]現チェチェン共和国首長であるラムザン・カディロフカディロフツィと呼称される私兵をウクライナに派兵するような支援は行っていないと否定している。一方、独立派はウクライナにも拠点を置いていたこともあり、カジョハル・ドゥダエフ大隊やシェイク・マンスール大隊等がウクライナの親欧米政権側に立ってドンバス戦争に参戦していた。


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