チェスター・B・ボウルス
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自身が駐インド大使を務めていた1967年3月、ソ連の政治家、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)の娘、スヴェトラーナ・アリルーイェヴァ(Светлана Аллилуева)がニューデリーのアメリカ大使館を訪れた際、彼女の政治亡命を手伝ったことでも知られている。

1986年5月25日、コネティカット州エセックスにて亡くなった。
生い立ちと教育

1901年マサチューセッツ州スプリングフィールドにて、父、チャールズ・アレン・ボウルス(Charles Allen Bowles)と、母・ネリーの間に生まれた。祖父、サミュエル・ボウルス三世(英語版)はジャーナリストであり、スプリングフィールドに拠点を置く日刊新聞『The Springfield Republican』の編集者であり、アメリカ共和党においては有数の広報担当者でもあった。一家は中流階級であり、父・チャールズは木材パルプ産業に従事していた。チェスターの両親はいずれも保守的な共和党員であり、「大きな政府」政策を嫌悪し、恐れていた。しかし、息子のチェスターの政治的見解に影響を及ぼしたのは、彼の叔母であるルース・スタンディッシュ・ボールドウィン(Ruth Standish Baldwin)であった。彼女は黒人の公民権運動の初期の指導者で長老派教会の牧師、ノーマン・トマス(英語版)の友人の一人でもあった。ルースはチェスターに対し、政治、公民権、国際情勢について徹底的に学ぶよう働きかけた。チェスターはコネティカット州ウォリングフォード(Wallingford, Connecticut)にあるチョート・スクール(The Choate School)に通い、1919年に卒業した。彼はイェール大学に合格し、同大学付属のシェフィールド科学学校(Sheffield Scientific School)の学生となった。1924年に大学を卒業し、理学士号を取得した。チェスターはのちに自身の大学時代について思い起こし、「過労、混乱、機会逸失の時代だった....大学の内外を問わず、何かについて熟慮する行為については、『田舎臭い』と見做されていた」と述懐している[2]

イェール大学の学生であったころから、チェスターは「外交官になりたい」と考えていた[3]。父・チャールズは、国際連盟(The League of Nations)の設立に反対していたが、息子・チェスターは父のこの姿勢に対して異議を唱えたことがある[4]。大学卒業後、チェスターは家族が経営するマサチューセッツ州スプリングフィールドの新聞社で記者として働いたのち、上海にあるアメリカ領事館で働いていたが、父親が病気を患ったことでアメリカに帰国した[5][3]
広告業界での仕事

ボウルスは、ニューヨーク市に拠点を置く広告代理店『The Batten Company』で広告案内・宣伝文句を作成する仕事に就いた。給料は週につき25ドルであった。この会社は1891年に誕生し、1928年に『BBDO』となった。1929年、ボウルスは同僚の一人、ウィリアム・ベントン(英語版)とともに、広告代理店『Benton & Bowles(英語版)』を設立した。二人が立ち上げた会社は、世界大恐慌の厳しい状況下にあっても、1930年代半ばまでに数百万ドル規模の企業に成長した。『Benton & Bowles』は、無線放送にて音声のみの通俗演劇を制作した。これは顧客の製品を宣伝するためであり、1936年までに、人気のあった4つの無線番組のうちの3つを担当した。彼らの事業の成功は、無線放送の需要の上昇も関係していた[6]1936年、ボウルスは同社の取締役会長に就任した。1941年までに、『Benton & Bowles』は年間で25万ドル以上の利益を得た、と伝えられている。ボウルスは自社の株式を売却したことで利益を得た。

1941年までに100万ドルを稼いだのち、仕事を辞めた[4]

のちに書き残した自伝『Promises to Keep』(『約束の保持』)の中で、ボウルスはこの仕事はあまり楽しくなかった趣旨を語っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}正直に申し上げておくと、大学を卒業してすぐに公務員になっていれば、より充実する形で、より能力を発揮できただろう、と思う。その一方で、最初の頃に味わった苦心惨憺のおかげで、私は家族とともに、大いなる主体性を確保する資本準備金を用意できたことを実感している。旅行に行き、本を執筆し、自分の意見を述べることができた。さまざまな課題や試練が発生するにつれて、別の職務に移行することになった[7]

世界大恐慌の中、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)が実施した失業対策『The New Deal Program』をボウルスは支持し、ウィリアム・ベントンとともに広告代理店での仕事を続けつつ、エレノア・ルーズヴェルト(Eleanor Roosevelt)と緊密に連携して政策構想に取り組んだ[8]
第二次世界大戦

当初のボウルスは、アメリカが第二次世界大戦に参戦することに強く反対し、『アメリカ第一主義委員会』に参加した[4][3]。これはアメリカにおける孤立主義(Isolationism)を支持する圧力団体であり、「イギリスナチス・ドイツとの戦争に敗れたとしても、アメリカの国家安全保障が損なわれる心配は無い」「イギリスに軍事支援を行えば、アメリカは戦争に引きずり込まれることになる」と主張していた。彼らはルーズヴェルトが推進した武器貸与法(The Lend-lease Act)にも熱心に反対していた。1941年12月、アメリカが第二次世界大戦への参戦を決定すると、ボウルスはアメリカ海軍に入隊しようとしたが、耳の怪我を理由に入隊を拒否された[3]1942年、ボウルスはコネティカット州の配給管理官に就任し、同年後半には州の価格管理局長に就任し、その後は総局長に就任した。1943年、ボウルスはルーズヴェルトから価格管理局(英語版)(合衆国連邦政府機関である緊急事態管理局内に設立された部門。1941年8月28日に設立された)の局長に任命され[3]1946年までこれを務めた。ボウルスは物価の暴騰を抑制し、貧困家庭が生活必需品を購入できないほどの困窮に陥らないよう、消費財の配給と価格の設定において主要な役割を果たした[4]。ボウルスはまた、1943年から1946年にかけて、戦争生産委員会(英語版)と戦争石油委員会(英語版)の委員も務めた[9][3]
政治家・外交官として

1946年、ボウルスは経済安定局(英語版)の局長に任命され[3]ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)政権下における経済安定委員会(The Economic Stabilization Board)の委員長に就任した。この年、コネティカット州知事選挙にて、民主党の指名獲得を目指して立候補したが、落選に終わった。さらにこの年、連合国経済科学文化機関『UNESCO』第一回協議会がパリで開催されると、ボウルスはアメリカ代表としてこれに参加した[9][3]


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