チェコ
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水面積率0.87%(2015年時点[1]

人口
総計(2020年1,070万9,000[2]人(85位
人口密度138.6[2]人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)3兆7,058億[3]チェコ・コルナ

GDP(MER
合計(2008年)2,170億[3]ドル(38位
1人あたりxxxドル

GDP(PPP
合計(2008年)2,621億[3]ドル(36位
1人あたり2万5,395[3]ドル

独立
 - 日付チェコスロバキア解体
1993年1月1日
通貨チェコ・コルナCZK
時間帯UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1CZ / CZE
ccTLD.cz ※a
国際電話番号420 ※b
※a: 欧州連合加盟国として.euを共用。
※b: 1997年までは、スロバキアと共に42を採用。

チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: ?eska republika)、通称チェコは、中央ヨーロッパ[注釈 1]にある共和制国家。首都はプラハである。

国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。
概要

国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。かつてはチェコスロバキアと呼ばれた共産主義体制国家の構成地域であったが、1989年からの革命によってその体制が崩壊したことから、1993年にチェコとスロバキアへ分離して現在の同国が成立した。

NATOEUOECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。
国名

正式名称(チェコ語)は ?eska republika[4]。通称は ?esko[5]

英語での公式名称は Czech Republic[6]であった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称にラテン語風の Czechia[7]があり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが[8][9][10]、現在一般的に使われているとは言いがたく、Czech Republic をそのまま用いることが多い。

ドイツ語では Tschechische Republik[11]。通称は Tschechien[12]、Tschechei[13]である。

外務省統一表記はチェコ共和国である。通称チェコ。かつての外務省書類などではチェッコという表記が使用された[注釈 2]

かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。

チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした ?echy[14]、ブルノを中心とした Morava[15]、さらにポーランド国境近くの Slezsko[16]の3つの地方がチェコ共和国を形成している。

ボヘミア地方を示す ?echy(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における ?echy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、特にチェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、?eska republika、Czech republic を用いる。

現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける ?esko は、チェコスロバキア時代の通称 ?eskoslovensko から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。
歴史詳細は「チェコの歴史」を参照
古代?中世まで

古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが[17]、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。カレル4世時代のボヘミア王冠領

西部のボヘミアモラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアハンガリーの支配を受けることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。

13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。

15世紀にはヤン・フスプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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