1918年10月、独墺の敗北が明らかになると、チェコ軍団将兵は早期帰国を望むようになった。いくつかの部隊は、戦線を離れ、東に向かう列車に乗り込んだ。このような状況下、10月25日、第1チェコスロバキア師団長ヨゼフ・シュヴェツ大佐は自決した。10月28日、チェコスロバキアが独立し、11月初め、チェコ軍団はウファ及びチェリャビンスクから撤収し始めた。
11月、ジャナン将軍は、在シベリア連合軍総司令官となったが、どの干渉国の部隊も指揮下に入らず、配下部隊はウラジオストクの1個中隊のみで、名目上のものに過ぎなかった。そこで、ジャナンは、コルチャーク軍を支援すると共に、チェコ軍団の掌握に乗り出した。クレマンソー首相がチェコスロバキア政府に対して圧力をかけ、1919年1月27日、ノヴォ・ニコラエフスク(ノヴォシビルスク)からイルクーツクまでのシベリア鉄道沿線がチェコ軍団の担当地域とされ、フランスはチェコ軍団を更に1年近くロシアに留めることに成功した。これに対して、6月、チェコ軍団内で反乱が発生したが鎮圧された。チェコ軍団将兵の撤退は、1919年12月になって初めて行われ始めた。
1920年1月、ジャナン将軍は、コルチャークをボリシェヴィキ側に引き渡すようにチェコ軍団に命令した。
第一次世界大戦からロシア内戦にかけて、チェコ軍団は、4千人以上を失った。この際、ボリシェヴィキ側に寝返ったのは、218人に過ぎない。
チェコ軍団参加者
ヤン・スィロヴィ - チェコ軍団司令官。後に対独協力者として逮捕
スタニスラフ・チェチェク - ペンザ・グループ指揮官
ラドラ・ガイダ - チェリャビンスク・グループ指揮官、後に対独協力者としてソ連により投獄
ルドヴィーク・スヴォボダ - 後のチェコスロバキア社会主義共和国大統領
ルドルフ・ヴィエスト - 後にスロバキア民衆蜂起に参加、ドイツ国防軍により処刑
エドゥアルド・カドレツ
ウラジーミル・クレツァンダ
関連項目
汎スラヴ主義
ロシア内戦
シベリア出兵
ウ・ボイ、ウ・ボイ
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