チェコスロバキア共産党
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一方、チェコスロバキア国内でも共産党員は厳しい弾圧を受け、多くの党員が強制収容所で命を落としながらもナチス支配に抵抗し、赤軍のチェコスロバキア侵入が近づいた1944年8月には、保護国成立に対抗して結成されていたスロバキア共産党が亡命政権派と協力してスロバキア民衆蜂起を実行したが、自力での祖国解放には失敗した。
政権奪取

第二次大戦末期の1945年4月5日、赤軍と共に祖国に戻ったチェコスロバキア共産党はスロバキア東部のコシツェでコシツェ宣言を発表し、亡命政権の帰還と共産党の連立政権参加を提示した。同年5月にドイツが降伏し、チェコスロバキア全土が赤軍の占領下に入ると、帰国したベネシュを大統領とし、共産党も参加する国民戦線政権が発足した。1946年の総選挙では共産党が第一党となり、首相や内務大臣などのポストを獲得したが、得票率はチェコ(41%)・スロバキア(30%)でいずれも過半数には至らず(全国では36%)、アメリカ・イギリスとソ連との間で中立的政策を指向するベネシュ大統領やヤン・マサリク外務大臣(トマーシュの息子)と、ソ連軍の駐留を背景に影響力拡大を目指す共産党の議長でもあるクレメント・ゴットワルト首相との間で対立が深まった。

1948年2月、マーシャル・プラン受け入れ拒絶などで共産党の圧力が増大したのに抗議するために非共産主義政党の閣僚達がベネシュ大統領に辞表を提出すると、共産党はこれを逆手に取り、首都プラハなどでのデモ行動の結果、内閣を共産党とその同調者で独占する事に成功し、実権を握った。共産党側はこれを「二月の勝利」と呼んでいる。同年3月10日にはヤン・マサリク外相が外務省の中庭で転落死しているのが発見された。これは自殺とされたが、当時から共産党による他殺と疑われた。そして6月7日にベネシュ大統領が辞任し(同年9月3日に病死)、7月にゴットワルトが大統領に就任して、共産党が事実上一党独裁を行う人民民主主義が宣言された。
ゴットワルト独裁政権

ゴットワルトは1929年に共産党書記長に就任し、第二次大戦中はソ連の首都モスクワで共産党パルティザンへの指揮を行っていた経歴の通り、非常にソ連に対して忠実な人物であり、当時のソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンの政治手法をそのまま踏襲した。すなわち、戦前のチェコスロバキアが維持していた議会制度は完全に放棄され、他政党の支持者はブルジョワ主義者や対独協力者として大量に粛清された。

粛清は共産党内にも及び、特に戦後もチェコスロバキア共産党の下部組織として存続していたスロバキア共産党分離主義傾向を持つチトー主義者の根拠地として多くの犠牲者を出した。1951年には共産党のルドルフ・スラーンスキー書記長やヴラジミール・クレメンティス外相が逮捕され、1952年11月20日にはチトー主義・トロツキストアメリカスパイなどの冤罪により11人が死刑判決を受けるスラーンスキー裁判(英語版)が行われた(同年12月2日に執行)。

経済政策もゴットワルトはスターリンと同様の政策を実施した。全ての生産設備は国有化され、中世以来の自由農民の伝統を破壊する農業集団化も強行されて、チェコスロバキアは「ミニ・スターリン」の手で最もスターリン主義的なソ連型社会主義国家へ変貌した。
ノヴォトニー体制の動揺

1953年、3月のスターリン死去に続き、5月14日にゴットワルトが急逝して、チェコスロバキア共産党は緩やかに変化した。集団指導体制の一角を占めたアントニーン・ノヴォトニー共産党第一書記は徐々に支持を固め、スラーンスキー裁判で訴追の中心人物となったアントニーン・ザーポトツキーが死去した1957年には大統領職も兼務した。ノヴォトニーはスターリン批判後に東ヨーロッパ諸国で広がるソ連支配への反発を抑え、ハンガリー動乱におけるソ連のハンガリー軍事介入を支持すると共に、1960年には国名をチェコスロバキア社会主義共和国へ改称した。一方、ゴットワルト政権による粛清犠牲者への名誉回復も慎重に進め、1963年にはスラーンスキー裁判の不当性を認める決定を下した。しかし、その自由化への対応は遅すぎた上、中央集権主義で硬直化した政治・経済システムや、1960年代に入って拡大した西側諸国との経済格差は共産党やノヴォトニー個人に対する国民の不満を増加させた。


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