ダービーは 17 の区からなる[11]。
区綴り範囲
アビイAbbeyストックブルック、ノルマントン
年人口[12]
180114,695
185148,506
1901118,469
1921142,824
1941167,321
1951181,423
1961199,578
1971219,558
1981214,424
1991225,296
2001221,716
2011248,700
隣接自治体、ベイクウェル、マンチェスターダフィールド
町は、ローマン・ブリテン、アングロ・サクソン・イングランド
(英語版)、デーンロウの起源を持つ。ローマ時代には、現在の町の北東にあたるリトル・チェスター(英語版)にローマ軍の拠点デルベンティオ[4](ダーヴェンティオ[6])が置かれた[13]。
デーンロウ時代には、この地は五市地方(イースト・ミッドランズに築かれた 5 つの主な城塞都市)の一つとなった[4][6]。9世紀のデーン人たちはここを Deoraby と呼び、これが現在の地名の起源となった[14]。Deoraby は古スカンジナビア語で djur + by すなわち「鹿が飼育される農場あるいは村」を意味する[15]。この一帯は Nortwortig(Northworthy = 「北の囲まれた土地」)および Deoraby と呼ばれ、それらはダービーの Irongate 側(北側)にあった[16]。2004年に行なわれたダービーの歴史学的・考古学的調査によると、ヴァイキングとアングロサクソンは水に囲まれた 2 つの地域で共存していた可能性がある。
『アングロサクソン年代記』(900年頃)には「ダービーは水で分かたれている」とある。『ドゥームズデイ・ブック』(1086年)には既に Derby という名が見える[15]。近代初期の地図(例えばスピードによる1610年の地図)には Darby あるいは Darbye という名が現れている。 1642-1646年のイングランド内戦の間のダービーは、1643年にダービーの統治者に任命されたジョン・ゲル
イングランド内戦期
愛しのチャールズ王子
百年後の1745年、「愛しのチャールズ王子」ことチャールズ・エドワード・ステュアートはジャコバイトの支持を得てイギリス王位継承権を主張し、スコットランドで蜂起した。南下したチャールズの軍勢は12月11日ダービーに達し、ロンドンはパニックに陥った[17]。チャールズはデヴォンシャー公が本営を構えていたアイロンゲートのジョージ・イン(英語版)に立ち寄り、自らの兵士 9 千人の宿舎を要求した。
チャールズはエクセター・ストリートのエクセター・ハウス(英語版)に宿泊し、そこで作戦会議を開いた[18]。この時点で既に補給は途切れ[19]、またイングランドでの同調者は殆ど無く、フランスとの連携も充分でなかった[17]。チャールズは軍を進めるつもりでいたが、部下の将校たちは反対した。彼はダービーの南ほんの 2-3 マイルにあるトレント川のスワークストーン橋(英語版)で進軍を断念した。彼は自らの流儀の証しとして、スコットランドからの行軍では縦隊の先頭に立って歩いていたが、今度は薄汚れ疲れきった兵士たちの末尾を馬に乗って帰途についた。
産業革命『ダービーの眺望』(1725年頃)
ダービーとダービーシャーはイギリスの産業革命の中心地だった。1717年に立てられたロウムズ・ミル(現在の産業博物館)はイギリスで初めての水力式製糸工場である[6]。この工場では、ジョン・ロウム(英語版)がイタリアのピエモンテから持ち帰った製糸技術が使われた。