ダービー_(イギリス)
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1750年[4][7][14](あるいは1755年[6])には、ドイツとフランスから伝わった技術をもとに[20]ウィリアム・ドゥーズベリらによって[7]ダービー磁器が作られ始めた。

1759年、ジェディダイア・ストラット(英語版)はダービー・リブ・アタッチメントという機械の特許を取り、これを製造したが、この機械は靴下の製造に革新をもたらした。この機械はリー牧師の靴下編み機(英語版)に取り付けて使われた。すなわちリーの編み機の手前側に取り付け、互いに同調して作動し、畝のついた靴下を製造した。共同経営者はジュディダイア・ストラット、ウィリアム・ウラットであり、1758年にはダービーの有力な靴下製造業者だったジョン・ブラッドワースとトーマス・スタフォードが加わった。この特許は1759年1月に取得された。3年後、ブラッドワースとスタフォードは事業から外れ、ノッティンガムの靴下製造業者サミュエル・ニードが共同事業に加わった。この会社はニード・ストラット・アンド・ウラットと呼ばれた。特許は1773年に切れたが、共同事業は1781年にニードが没するまで続いた。

ダービーに関連したその他の著名な18世紀の人物には、ジョンソン辞典(英語版)を編纂し1735年にサン・ワーバラ教会(英語版)でエリザベス・ポーター(英語版)と結婚したサミュエル・ジョンソン、革新的な明暗法で知られロイヤル・アカデミーの準会員でもあったジョセフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)、有名な時計職人(英語版)であり哲学者でもあったジョン・ホワイトハースト、が挙げられる。医師・科学者・哲学者でありチャールズ・ダーウィンの祖父にあたるエラズマス・ダーウィンスタッフォードシャーに居を構えていたが、頻繁にダービーを訪れ、ダービー哲学会を設立した。

19世紀に入ると、ロシアに工作機械を輸出したジェームズ・フォックス(英語版)のような機械製作者らと共に、ダービーは工学技術の中心都市として台頭した。

1840年、ノース・ミッドランド鉄道(英語版)はダービーに工場(ダービー鉄道製作所(英語版))を設置し、のちにミッドランド・カウンティーズ鉄道(英語版)、バーミンガム・アンド・ダービー・ジャンクション鉄道(英語版)と共に合併してミッドランド鉄道となった時、ダービーはその本拠地となった。

この鉄道に関連して、アンドリュー・ハンディサイド、チャールズ・フォックス(英語版)、その息子フランシス・フォックス(英語版)の仕事を挙げることができる。

ダービーは1835年の1835年地方自治法(英語版)で再編成されたバラのひとつであり、1888年地方政府法(英語版)でカウンティ・バラ(英語版)となった。このバラは1877年にリトル・チェスター(英語版)とリチャーチ(英語版)を合併し、1890年にはニュー・ノルマントンとロウディッチを合併した。

ダービーはイギリスの中でも海から最も遠い地域のひとつだが、海難防止の歴史において特別な意味を持っている。すなわち満載喫水線(およびその他の海難防止の枠組み)に関する法案を提出したのは、ダービーから選出された国会議員サミュエル・プリムソル(英語版)だった。これは初回の提出では否決されたが、1876年に可決され、プリムソルの国会議員再選に貢献した。
20世紀から今日まで

ダービーは労働運動史においても特別な意味を持っている。なぜなら1900年の総選挙において、結成されたばかりの労働党が獲得した 2 議席のうちの 1 つがダービーだったからである。(もう 1 つはマーサー・ティドビルケア・ハーディ。)その国会議員は、全国鉄道・海運・輸送従事者組合(英語版)の書記長リチャード・ベル(英語版)だった。ベルは1910年にジェームズ・ヘンリー・トーマス(英語版)に議席を奪われ、トーマスは1936年に著名な博学者にしてノーベル賞受賞者フィリップ・ノエル=ベーカーに議席を奪われた。

1907年にロールス・ロイスがダービーに自動車と飛行機の工場を開くと、町に工業景気が沸き起こった。1923年、ミッドランド鉄道はロンドンに本拠を置くロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道の一部となった。しかしダービーは、クルー(英語版)とウルバートン(英語版)に次ぐ主要な鉄道製造の中心地であり続けた。加えて、設計と開発の中心地でもあり続け、1930年代にはジョサイア・スタンプ(英語版)の指揮の下、ロンドン・ロードにLMS科学研究所(英語版)が開かれた。

第一次世界大戦の時には、ダービーはドイツツェッペリン爆撃機の標的となり、1916年の爆撃で 5 人が犠牲となった。

1927年には、それまで教区教会だったオール・セインツ教会が大聖堂となり[1]、ダービーがいよいよシティ・ステータスとなる準備が整った。

1920年代から1930年代のスラムの浄化によって、ダービーの中心地域の人口過密は緩和された。多くの世帯が、郊外の公営住宅(英語版)や戸建の家に移り住むことになったからである。転居、公営住宅や戸建住宅の建設は、1945年の第二次世界大戦終結まで約30年にわたり大きな規模で続いた[21]

鉄道と航空機エンジンの生産地という点で戦略的に重要な工業地であったにもかかわらず、ブリストルやフィルトン(英語版)に比べると、ダービーは両世界大戦で相対的に被害が少なかった。その幾分かの要因として、ドイツのラジオ電波誘導システム(X-Verfahren と Knickebein)に対する妨害を挙げることができるだろう。すなわち、迷彩や囮の仕組み(スターフィッシュ・サイト(英語版))が主にフォアマーク(英語版)近くの野原など、町の南部に作られた[22][23]

鉄道産業での製造と修繕は続いていた。1948年にダービー鉄道製作所(英語版)は初のディーゼル機関車 "Number 10000(英語版)" を世に送り出し、1958年にはディーゼル車のみの生産に完全に切り替わった。一方ダービー客貨車製作所(英語版)は最初の気動車を生産し、後に同種の車はこれに置き換えられていった。

1964年には鉄道工学のあらゆる側面をその基礎理論から研究するイギリス鉄道研究局(英語版)が開かれた。その最初の成果は、貨物列車の信頼性と速度の劇的な改善に現われ、これがAPTの開発につながった。

ダービーは1967年にダービー・カウンティFCの監督としてブライアン・クラフを迎えて以降、スポーツでも世界的に名を知られるようになった。

1968年、地方政府区域委員会 (Local Government Boundary Commission) の勧告により、ダービーはサウス・イースト・ダービーシャー(英語版)、レプトン(英語版)、ベルパー(英語版)の郊外地域の大部分を合併した。これにより、1961年には 132,408 人だった人口が1971年には 219,578 人に倍増した[24]

町の中心部の様相は、1968年に新しい内環道がダーウェント川(英語版)を新たに 2 箇所またがる形で建設され、変化した。内環道は、セント・アルクムンド教会(英語版)と(ダービーで唯一となるジョージ王朝時代(英語版)の一角となる)教会の隣接墓地(英語版)を通ることになり、いずれも道路建設のため取り壊されたが、これには今日でも批判の声がある。ダービーシャーに関するニコラウス・ペヴズナーの著作の第2版で編集者を務めたエリザベス・ウィリアムソンはこう書いている。「…中心街の特徴と結びつきは、そこの18世紀の建物を大量に取り壊し、複数車線道路に変えたことで一変してしまった。これは道路計画としては大成功と言われているが、町の景観という点では破壊的である。」

1977年6月7日、ダービーはエリザベス2世在位25周年(英語版)の節目として、女王からシティ・ステータスを与えられた[25]。1977年7月28日、国会議事堂の壇上において、女王は当時の市長ジェフリー・ティエ(保守党)に手ずから認可状 (charter scroll) もしくは勅許状 (letters patent) を手渡した[26]。それまで、ダービーは大聖堂がありながらシティ・ステータスを得ていない、数少ない町のひとつだった。

ダービーはイギリスにおける聾文化の重要な中心地となっている。手話使用者の大きなコミュニティがあるため、多くの聴覚障碍者がダービーに移り住んでいる。全国平均に比べると、ダービーの聴覚障碍者人口は少なくとも 3 倍に達すると見られる。人数で見ると、ダービーを上回るのはロンドンだけである。アッシュボーン・ロードにある王立聴覚障碍者学校 (The Royal School for the Deaf) は手話英語の教育を行なっている。


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