ダービー_(イギリス)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ペニン山脈南端[6]、ミッドランド低地北縁に位置し[4]、ダーウェント川(英語版)西岸に接する[6]
地域
行政区画

ダービーは 17 の区からなる[11]

区綴り範囲
アビイAbbeyストックブルック、ノルマントン(英語版)(の一部)
アレスツリーAllestreeアレスツリー(英語版)、マーキートン公演(英語版)
アルバストンAlvastonアルバストン(英語版)、クルートン、リチャーチ(英語版)、プライド・パーク、ウィルモートン(英語版)、アレントン(英語版)(の一部)
アーボリータムArboretum市の中心部、ピア・ツリー(英語版)、ローズ・ヒル(英語版)
ブラグリーブスBlagreavesサニー・ヒル(英語版)、リトルオーバー(英語版)(の一部)
ボールトンBoultonボールトン(英語版)、アレントン(英語版)(の一部)
チャッデスデンChaddesdenチャッデスデン(英語版)(の旧地域)
チェラストンChellastonチェラストン(英語版)、シェルトン・ロック(英語版)
ダーリーDarleyダーリー・アビイ(英語版)、ファイブ・ランプス、リトル・チェスター(英語版)(チェスター・グリーンとも呼ばれる)、ストラッツ・パーク、ウェスト・エンド
ダーウェントDerwentブレッゾール・ヒルトップ、チャッデスデン(英語版)(の新地域)
リトルオーバーLittleoverリトルオーバー(英語版)(の殆ど)、ヘザートン・ビレッジ(英語版)
マックワースMackworthマックワース・エステート(英語版)、 モーリー・エステート
ミックルオーバーMickleoverミックルオーバー(英語版)
ノルマントンNormantonノルマントン(英語版)(の殆ど)、オースティン・エステート
オークウッドOakwoodオークウッド(英語版)、チャッデスデン(英語版)(の一部)
シンフィンSinfinシンフィン(英語版)、オスマストン(英語版) and ステンソン・フィールズ(英語版)(の一部)
スポンドンSpondonスポンドン(英語版)

人口
人口の変遷

年人口[12]
180114,695
185148,506
1901118,469
1921142,824
1941167,321
1951181,423
1961199,578
1971219,558
1981214,424
1991225,296
2001221,716
2011248,700

隣接自治体

近隣の町と村バクストン、ベイクウェルマンチェスターダフィールド(英語版)、ベルパー(英語版)、マトロック(英語版)イルケストン(英語版)、ヒーナー(英語版)、イーストウッド(英語版)、アルフレトン(英語版)、リプリー(英語版)、マンスフィールドチェスターフィールド, シェフィールド
アシュボーン(英語版)、ユートクシター(英語版)、ストーク・オン・トレントノッティンガム、ボロウウォッシュ(英語版)、ブレストン(英語版)、ロング・イートン(英語版)、ビーストン(英語版)
   ダービー   

バートン・アポン・トレント(英語版)、リッチフィールドバーミンガムスワドリンコート(英語版)、カッスル・ドニントン(英語版)、メルボルン(英語版)、アシュビー・デ・ラ・ザウチ(英語版)ケグワース(英語版)、ラフバラーレスター

歴史
起源

町は、ローマン・ブリテン、アングロ・サクソン・イングランド(英語版)、デーンロウの起源を持つ。

ローマ時代には、現在の町の北東にあたるリトル・チェスター(英語版)にローマ軍の拠点デルベンティオ[4](ダーヴェンティオ[6])が置かれた[13]

デーンロウ時代には、この地は五市地方(イースト・ミッドランズに築かれた 5 つの主な城塞都市)の一つとなった[4][6]。9世紀のデーン人たちはここを Deoraby と呼び、これが現在の地名の起源となった[14]。Deoraby は古スカンジナビア語で djur + by すなわち「鹿が飼育される農場あるいは村」を意味する[15]。この一帯は Nortwortig(Northworthy = 「北の囲まれた土地」)および Deoraby と呼ばれ、それらはダービーの Irongate 側(北側)にあった[16]。2004年に行なわれたダービーの歴史学的・考古学的調査によると、ヴァイキングとアングロサクソンは水に囲まれた 2 つの地域で共存していた可能性がある。

アングロサクソン年代記』(900年頃)には「ダービーは水で分かたれている」とある。『ドゥームズデイ・ブック』(1086年)には既に Derby という名が見える[15]。近代初期の地図(例えばスピードによる1610年の地図)には Darby あるいは Darbye という名が現れている。
イングランド内戦期
愛しのチャールズ王子

1642-1646年のイングランド内戦の間のダービーは、1643年にダービーの統治者に任命されたジョン・ゲル(英語版)の指揮する議会軍が駐屯した。この軍は近くのノッティンガム防衛戦、リッチフィールド攻城戦、ホプトン・ヒースの戦い(英語版)、その他ノッティンガムシャースタッフォードシャーチェシャーでの多くの戦闘に参加し、ダービーシャーを国王軍から守ることにも成功した。カシドラル・グリーンにある“愛しのチャールズ王子”像

百年後の1745年、「愛しのチャールズ王子」ことチャールズ・エドワード・ステュアートジャコバイトの支持を得てイギリス王位継承権を主張し、スコットランドで蜂起した。南下したチャールズの軍勢は12月11日ダービーに達し、ロンドンはパニックに陥った[17]。チャールズはデヴォンシャー公が本営を構えていたアイロンゲートのジョージ・イン(英語版)に立ち寄り、自らの兵士 9 千人の宿舎を要求した。

チャールズはエクセター・ストリートのエクセター・ハウス(英語版)に宿泊し、そこで作戦会議を開いた[18]。この時点で既に補給は途切れ[19]、またイングランドでの同調者は殆ど無く、フランスとの連携も充分でなかった[17]。チャールズは軍を進めるつもりでいたが、部下の将校たちは反対した。彼はダービーの南ほんの 2-3 マイルにあるトレント川のスワークストーン橋(英語版)で進軍を断念した。彼は自らの流儀の証しとして、スコットランドからの行軍では縦隊の先頭に立って歩いていたが、今度は薄汚れ疲れきった兵士たちの末尾を馬に乗って帰途についた。
産業革命ダービーの眺望』(1725年頃)

ダービーとダービーシャーはイギリスの産業革命の中心地だった。1717年に立てられたロウムズ・ミル(現在の産業博物館)はイギリスで初めての水力式製糸工場である[6]。この工場では、ジョン・ロウム(英語版)がイタリアピエモンテから持ち帰った製糸技術が使われた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:148 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef