ダービー_(イギリス)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ローマ時代には、現在の町の北東にあたるリトル・チェスター(英語版)にローマ軍の拠点デルベンティオ[4](ダーヴェンティオ[6])が置かれた[13]

デーンロウ時代には、この地は五市地方(イースト・ミッドランズに築かれた 5 つの主な城塞都市)の一つとなった[4][6]。9世紀のデーン人たちはここを Deoraby と呼び、これが現在の地名の起源となった[14]。Deoraby は古スカンジナビア語で djur + by すなわち「鹿が飼育される農場あるいは村」を意味する[15]。この一帯は Nortwortig(Northworthy = 「北の囲まれた土地」)および Deoraby と呼ばれ、それらはダービーの Irongate 側(北側)にあった[16]。2004年に行なわれたダービーの歴史学的・考古学的調査によると、ヴァイキングとアングロサクソンは水に囲まれた 2 つの地域で共存していた可能性がある。

アングロサクソン年代記』(900年頃)には「ダービーは水で分かたれている」とある。『ドゥームズデイ・ブック』(1086年)には既に Derby という名が見える[15]。近代初期の地図(例えばスピードによる1610年の地図)には Darby あるいは Darbye という名が現れている。
イングランド内戦期
愛しのチャールズ王子

1642-1646年のイングランド内戦の間のダービーは、1643年にダービーの統治者に任命されたジョン・ゲル(英語版)の指揮する議会軍が駐屯した。この軍は近くのノッティンガム防衛戦、リッチフィールド攻城戦、ホプトン・ヒースの戦い(英語版)、その他ノッティンガムシャースタッフォードシャーチェシャーでの多くの戦闘に参加し、ダービーシャーを国王軍から守ることにも成功した。カシドラル・グリーンにある“愛しのチャールズ王子”像

百年後の1745年、「愛しのチャールズ王子」ことチャールズ・エドワード・ステュアートジャコバイトの支持を得てイギリス王位継承権を主張し、スコットランドで蜂起した。南下したチャールズの軍勢は12月11日ダービーに達し、ロンドンはパニックに陥った[17]。チャールズはデヴォンシャー公が本営を構えていたアイロンゲートのジョージ・イン(英語版)に立ち寄り、自らの兵士 9 千人の宿舎を要求した。

チャールズはエクセター・ストリートのエクセター・ハウス(英語版)に宿泊し、そこで作戦会議を開いた[18]。この時点で既に補給は途切れ[19]、またイングランドでの同調者は殆ど無く、フランスとの連携も充分でなかった[17]。チャールズは軍を進めるつもりでいたが、部下の将校たちは反対した。彼はダービーの南ほんの 2-3 マイルにあるトレント川のスワークストーン橋(英語版)で進軍を断念した。彼は自らの流儀の証しとして、スコットランドからの行軍では縦隊の先頭に立って歩いていたが、今度は薄汚れ疲れきった兵士たちの末尾を馬に乗って帰途についた。
産業革命ダービーの眺望』(1725年頃)

ダービーとダービーシャーはイギリスの産業革命の中心地だった。1717年に立てられたロウムズ・ミル(現在の産業博物館)はイギリスで初めての水力式製糸工場である[6]。この工場では、ジョン・ロウム(英語版)がイタリアピエモンテから持ち帰った製糸技術が使われた。

1750年[4][7][14](あるいは1755年[6])には、ドイツとフランスから伝わった技術をもとに[20]ウィリアム・ドゥーズベリらによって[7]ダービー磁器が作られ始めた。

1759年、ジェディダイア・ストラット(英語版)はダービー・リブ・アタッチメントという機械の特許を取り、これを製造したが、この機械は靴下の製造に革新をもたらした。この機械はリー牧師の靴下編み機(英語版)に取り付けて使われた。すなわちリーの編み機の手前側に取り付け、互いに同調して作動し、畝のついた靴下を製造した。共同経営者はジュディダイア・ストラット、ウィリアム・ウラットであり、1758年にはダービーの有力な靴下製造業者だったジョン・ブラッドワースとトーマス・スタフォードが加わった。この特許は1759年1月に取得された。3年後、ブラッドワースとスタフォードは事業から外れ、ノッティンガムの靴下製造業者サミュエル・ニードが共同事業に加わった。この会社はニード・ストラット・アンド・ウラットと呼ばれた。特許は1773年に切れたが、共同事業は1781年にニードが没するまで続いた。

ダービーに関連したその他の著名な18世紀の人物には、ジョンソン辞典(英語版)を編纂し1735年にサン・ワーバラ教会(英語版)でエリザベス・ポーター(英語版)と結婚したサミュエル・ジョンソン、革新的な明暗法で知られロイヤル・アカデミーの準会員でもあったジョセフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)、有名な時計職人(英語版)であり哲学者でもあったジョン・ホワイトハースト、が挙げられる。医師・科学者・哲学者でありチャールズ・ダーウィンの祖父にあたるエラズマス・ダーウィンスタッフォードシャーに居を構えていたが、頻繁にダービーを訪れ、ダービー哲学会を設立した。

19世紀に入ると、ロシアに工作機械を輸出したジェームズ・フォックス(英語版)のような機械製作者らと共に、ダービーは工学技術の中心都市として台頭した。

1840年、ノース・ミッドランド鉄道(英語版)はダービーに工場(ダービー鉄道製作所(英語版))を設置し、のちにミッドランド・カウンティーズ鉄道(英語版)、バーミンガム・アンド・ダービー・ジャンクション鉄道(英語版)と共に合併してミッドランド鉄道となった時、ダービーはその本拠地となった。

この鉄道に関連して、アンドリュー・ハンディサイド、チャールズ・フォックス(英語版)、その息子フランシス・フォックス(英語版)の仕事を挙げることができる。

ダービーは1835年の1835年地方自治法(英語版)で再編成されたバラのひとつであり、1888年地方政府法(英語版)でカウンティ・バラ(英語版)となった。このバラは1877年にリトル・チェスター(英語版)とリチャーチ(英語版)を合併し、1890年にはニュー・ノルマントンとロウディッチを合併した。

ダービーはイギリスの中でも海から最も遠い地域のひとつだが、海難防止の歴史において特別な意味を持っている。すなわち満載喫水線(およびその他の海難防止の枠組み)に関する法案を提出したのは、ダービーから選出された国会議員サミュエル・プリムソル(英語版)だった。これは初回の提出では否決されたが、1876年に可決され、プリムソルの国会議員再選に貢献した。
20世紀から今日まで

ダービーは労働運動史においても特別な意味を持っている。なぜなら1900年の総選挙において、結成されたばかりの労働党が獲得した 2 議席のうちの 1 つがダービーだったからである。(もう 1 つはマーサー・ティドビルケア・ハーディ


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:148 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef