1266年に6代ダービー伯爵ロバート・フェラーズから没収されたダービー伯爵領は、ヘンリー3世の次男でランカスター家の祖であるランカスター伯爵エドマンド(通称クラウチバック)に与えられた[7][8]。
その孫であるヘンリー・オブ・グロスモントは1337年にエドワード3世からダービー伯爵に叙された[9]。ヘンリーは1351年にランカスター公にも叙されている[9]。
ヘンリー・オブ・グロスモントの没後、これらの称号は娘のブランシュと結婚したジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の四男)に相続され[10]、次いでジョンの長男ヘンリー・ボリングブルックが継承した。ヘンリー・ボリングブルックは1399年にリチャード2世を撃破してヘンリー4世としてイングランド王に即位したため、ダービー伯爵の称号も王冠にマージされた。 スタンリー家
スタンリー家
スタンリー家は結婚を通じて荘園を増やし、郷士として力を伸ばしていった[14]。アダムの玄孫ウィリアム・スタンリー (1340頃-1414) には3人の息子があり、長男ウィリアム (1337-1398) の家系はフートン荘園を世襲する準男爵家、次男のジョン (1340頃-1414) の家系がレイサム荘園とノーズリー荘園(英語版)を世襲するダービー伯爵家となる[15][16]。ジョンは初めリチャード2世に仕え、アイルランド統監を務めるなどしたが、ヘンリー・ボリングブルック(ヘンリー4世)の王位簒奪の際にはヘンリー4世に寝返った。1405年にイングランド北部の雄族パーシー家が北部とウェールズで反乱を起こした際にはそれを鎮圧し、その功績でマン島の統治権を認められた。当初この権利は一代限りだったが翌1406年にはマン島統治権を世襲する権利とその王を称する権利を与えられた[17]。
その孫であるトマス・スタンリー(英語版)(1405?1459) は、中央政界でも活躍し、アイルランド総督に任命されたり、ヘンリー6世の王室侍従長兼財務長官任命されるなどした。またランカシャー選出の庶民院議員として議席を維持し続けた[17]。1456年1月15日の議会招集令状(英語版)でスタンリー男爵(英語版)(Baron Stanley) として貴族院へ召集された[17][18]。初代ダービー伯爵トマス・スタンリー
彼の長男である2代男爵トマス (1435頃-1504) はマーガレット・ボーフォートと結婚し、薔薇戦争におけるボズワースの戦いの際に継子のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)側についた功績でヘンリー7世によって1485年10月27日にダービー伯爵 (Earl of Derby) に叙された[19][20]。これはウィリアム・シェイクスピアの『リチャード三世』にも描かれている[21]。
初代ダービー伯トマス・スタンリーの長男であるジョージ・スタンリーはノッキンの第9代ストレンジ女男爵ジョーン・ストレンジと結婚し、妻の権利によって貴族院に出席した[18][22]。彼は父より先に没したため、ダービー伯爵やストレンジ男爵の爵位は長男のトマス(英語版)(1477-1521) が相続した。この2代伯トマスはヘンリー8世の初期の宮廷で廷臣を務めた[23]。彼の代の1501年にマン島の王の称号はマン島領主(Lord of Mann) に改称された[24]。
2代伯の死後は、息子のエドワード(英語版)(1508頃-1572) が3代伯となった。彼は16世紀半ばの宗教改革期にプロテスタント改革派と距離を取ることでスタンリー家の安泰を図った。1553年に挙行されたカトリックのメアリー1世の戴冠式でも大家令を務めており、チェシャーやランカシャーの統監にもなった[25]。
4代伯ヘンリー(英語版)(1531-1593) は3代伯の息子で、マーガレット・クリフォード(英語版)と結婚した。彼女はヘンリー7世の娘メアリー・テューダーの孫であり、以後直系子孫である10代伯ジェームズ (1664-1736) までのスタンリー家の成員はイングランドの王位継承権を持つことになった[26]。ただし結婚生活は不幸で、マーガレットは浪費に走ったことなどが原因で別居、わずかな生活費しか与えられず貧困に苦しみ、宮廷でエリザベス1世と親交を結んだが、やがて宮廷からも遠ざかり不自由な生活を強いられたまま不幸な一生を送った[27]。
5代伯ファーディナンド (1559-1594) は4代伯とマーガレットの長男で、1593年に襲爵したが翌1594年に急死した。