ダービー伯エドワード・ジョフリー・スミス・スタンレー
[Wikipedia|▼Menu]
1831年2月10日 - 1832年12月12日[2]
1832年12月10日 - 1844年8月31日[2]
貴族院議員
在任期間1844年 - 1869年[2]
テンプレートを表示

第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス=スタンリー(英語: Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)、 1799年3月29日 - 1869年10月23日)は、イギリス政治家貴族

保守党とピール派の分裂後にロバート・ピールに代わって保守党党首となり、3度にわたって首相1852年1858年 - 1859年1866年 - 1868年)を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上選挙管理内閣だったため、庶民院院内総務の地位にあったベンジャミン・ディズレーリが政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。1868年に退任し、ディズレーリが保守党党首・首相の地位を継承した。

1834年から1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用し、1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)を、1851年にはダービー伯爵位を、それぞれ継承した。
概要

第13代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの長男。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する(→生い立ち

大学在学中の1820年庶民院議員に初当選した。はじめはホイッグ党の議員だった。1827年トーリー党自由主義派のジョージ・カニングを首相とする内閣に陸軍・植民地省政務次官(英語版)として参加した。1830年グレイ伯爵を首相とするホイッグ党政権にもアイルランド担当大臣(英語版)、のち陸軍・植民地大臣として入閣したが、1834年にはグレイ伯爵のアイルランド国教会の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した(→ホイッグ党議員時代

その後ホイッグ党右派を引き離れて分党し、ダービー派を形成したが、1837年夏の総選挙で議席を落とす(→独立会派時代)。以降保守党(旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。1841年の保守党政権ロバート・ピール内閣には陸軍・植民地大臣として入閣。1844年には繰上勅書でビッカースタッフのスタンリー男爵を継承し、貴族院へ移籍した(→保守党中堅議員時代)。

1845年にピール首相が穀物法を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるも、ピールらがピール派を立ち上げて保守党を去ったため、代わって保守党党首に就任した。1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する(→保守党党首に)。

ベンジャミン・ディズレーリを保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、1852年ジョン・ラッセル卿のホイッグ党政権を倒して第1次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので、大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案が否決されたことで、同年のうちに総辞職することとなった(→第1次ダービー伯爵内閣)。

1858年、ホイッグ党政権パーマストン子爵内閣が議会で敗れて総辞職したため第2次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので1859年には議会で敗北して総辞職に追い込まれた(→第2次ダービー伯爵内閣

1865年ラッセル伯爵内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで、第3次内閣を組閣した。第1次、第2次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第2次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした(→第3次ダービー伯爵内閣)。

1868年に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任、その翌年に死去した(→死去)。
生涯
生い立ちダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホール(英語版)。

ランカシャーのダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホール(英語版)に生まれる。父はスタンリー卿エドワード・スミス=スタンリー(後の第13代ダービー伯爵。この頃は襲爵前でスタンリー卿の儀礼称号を使用していた)。母はウィニック教区牧師ジェフリー・ホーンビーの娘シャーロット[3][4]

イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[5][4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:199 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef