ダヴィド・ベン=グリオン
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この判断は分割案に反対するゼエヴ・ジャボチンスキーとの論争を巻き起こし、結果としてジャボチンスキーの支持者らはハガナーから分離し、ベン=グリオンの政策を無視することになる。

イスラエル建国後、ブナイ・ブリスのジャボチンスキーをイスラエルの地に再埋葬する提案に対し、ベン=グリオンは1958年5月7日にブナイ・ブリスの副代表でテルアヴィヴ地方裁判所の判事だったヨセフ・ラムに「我が国は生者はともかく、死者を必要としてはいない。そして我が国に墓碑銘が増えることを歓ぶイスラエル人を、私は寡聞にして知らない」と手紙を書き送った[6]。この願いはレヴィ・エシュコル首相の時代に達せられた。
首相就任イスラエル建国を宣言するベン=グリオン、壁の肖像は「シオニズムの父」テオドール・ヘルツル1949年1月20日、クネセト選挙のための演説を行うベン=グリオン。

ベン=グリオンは1948年5月14日、イスラエル国家の設立を宣言した。彼はイスラエル独立宣言の中で、新しい国家は「人種、信条、性差に偏見を持たず、市民の完全な社会的、政治的平等を守る」と述べた。1949年5月11日にはイスラエルの国連加盟を実現した。

独立直後に第1次中東戦争が勃発するが、その期間中にベン=グリオンは初代イスラエル首相に選ばれ、これを戦い抜いて領土拡大など戦果を収めている。以来彼は、1948年5月14日から1963年まで、1954年から1955年の約2年間を除いて首相であり続けた。首相としては国の機関の設立を監督し、占領地の開拓に力を入れると共に、1949年から翌年にかけてイエメンからユダヤ系住民を空輸して受け入れる魔法の絨毯作戦を実行し、「国の水がめ」(National Water Carrier of Israel)の建設、地方開発計画とニュータウンや都市の建設など、国と国民の生活の発展に向けた、さまざまな国家プロジェクトを統括する立場にあった。特に、彼はネゲヴなどの辺境の地域の入植地開拓に力を注いだ。
首相退任

1953年10月にキビヤ村虐殺事件[注釈 5]が起こった際、ベン=グリオンは事件を引き起こした軍事作戦での要職にあった。1953年末、彼は政府職辞任の意を表明し、1954年1月にモシェ・シャレットに第2代首相の座を渡した。

ベン=グリオンは1955年に国防相のポストを引き受けて政界に復帰し、すぐさま首相に再選した。

ベン=グリオンは1963年に「個人的理由」として首相の座を辞し、レヴィ・エシュコルを次期首相に指名するが、1年後、ラヴォン事件[注釈 6]について2人の対立が始まり、1965年ベン=グリオンは政党を離れ、新政党ラフィ(Rafi)を結成、10の議席を得た。六日間戦争の後、ベン=グリオンはエルサレムゴラン高原、ヘブロン山を除く全ての占領地域を返還することに賛成していた[7]

1968年、ラフィがマパイと合併しアラインメント(Alignment)となっても、ベン=グリオンは彼の元の政党との和解を拒んだ。彼は選挙改革として、選挙区制制度から比例代表制方式に移行することを望んだ。彼はその後、別の新党としてナショナル・リスト(National List)を立ち上げ、1969年の選挙で4議席を獲得した。
ネゲヴへの隠棲ベン=グリオンが移り住んだキブツ・Sde Bokerの彼の家

1970年に政界引退しキブツに隠棲した。

ベン=グリオンは閑疎とした不毛のネゲヴ砂漠に入植地を作ることがパレスチナのアラブ人たちの反発を最も抑えられる方法だと考え、身を以って範を垂れるためネゲヴの中心のスデ・ボケル(Sde Boker)というキブツに移ることを選び、水を送るために国立の貯水池を建てた。彼はユダヤの人々が人類に大きく貢献することができる場所として、砂漠を開発する挑戦に努めた[8]

ベン=グリオンは死後、ネゲヴ砂漠のミドレシェト・ベン=グリオン(Midreshet Ben-Gurion)に妻とともに埋葬された。1975年発行の旧500イスラエル・リラ紙幣で肖像が使用されている。
政治姿勢
イギリスのパレスチナ委任統治イギリス委任統治領パレスチナの領土

イギリスのマクドナルド白書(White Paper of 1939)に基づき、パレスチナへのユダヤ人移民が規制され、最初の5年間は年に15,000人、それ以降はアラブ人の同意が必要と規定された。制限はユダヤ人がアラブ人から土地を買う権利にも置かれた。この宣言の後、ベン=グリオンは彼のイギリスに対する政策を変えることになり、「白書の方針による妨害によって、パレスチナの平和は最高の状態を維持できないでしょう。」と述べた[9]。ベン=グリオンはアラブとの和平解決の可能性はなく、すぐにイシューヴ[注釈 7]に戦争を準備させようと考えていた。S・テヴェツによれば、彼のイギリスの戦争支持の試みのためのイシューヴの動員活動は、『ユダヤ人軍隊』の核兵器の製造を後押しし、その努力の結果、ユダヤ人の国家を建設するシオニズムの闘争を勝ち取ることに成功したという[10]

第二次世界大戦中、ベン=グリオンはパレスチナのユダヤ人に、イギリス陸軍に志願することを奨励した。彼がユダヤ人に向けて語った有名な言葉に「白書が無いかのようにイギリスの戦争を助け、戦争が無いかのように白書に対抗する。」がある[11]。パレスチナのユダヤ人人口の約10%がイギリス陸軍に志願し、その中には多くの女性も含まれていた。同じ頃、ベン=グリオンは多くのヨーロッパからの違法移民を、イギリスの強い移民規制がある中で援助していた。

1946年、ベン=グリオンはハガナーが、イギリス当局と戦闘中のメナヘム・ベギン率いるイルグンと協力することに同意した。ベン=グリオンは、ベギンの提案した1946年のキング・デイヴィッド・ホテルの爆破を、駐在するイギリス軍を殺すというよりも、戸惑わせる目的で、最初は認めた。しかし、大量殺人の可能性が浮き彫りになると、ベン=グリオンはベギンに作戦の中止を求めたが、ベギンは拒否したという[12]。結局キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件は起こり、このホテルをオフィスとして使っていたイギリス軍や委任統治当局に多数の死者が出た。

違法なユダヤ人の移住はイギリスに国際連盟の命令に基づいたユダヤ人の移住を認めるのか、それとも止めるのかの選択を迫ることになった。1948年、イギリスは後者を選び、国際連合決議によるユダヤ人とアラブ人の領土分割(パレスチナ分割決議)の後も、制限に変更はなかった。
宗教政党

1947年9月にベン=グリオンは、正統派アグダト・イスラエル党[注釈 8]とは現状維持で迎える合意に達した。彼はアグダト・イスラエル党に、安息日をイスラエルの公式の休暇日とし、民事婚をなくし、正統派の分野には独立した宗教教育の範囲が与えられることを約束する手紙を送った。
国防軍の指揮

1948年の第一次中東戦争の間、ベン=グリオンはまだ国ができて間もない頃の軍事作戦を指揮した。イスラエル独立の最初の週には全ての軍事勢力をイスラエル国防軍(IDF)として一つの国軍とすることを命じた。そのために、ベン=グリオンはイルグンの購入した武器を運んでいた「アルタレナ号」という船を沈める命令を下し[注釈 9]、約16人のイルグンのメンバーが攻撃により死亡した[13]。(詳細は#アルタレナ号事件で後述)
アルタレナ号事件アルタレナ号(模型)

1948年6月19日、第一次中東戦争の休戦中、900人のイスラエルへの移民と多数のイルグン義勇兵、他にライフル、軽機関銃などイルグンの武器を積み込んだ輸送船アルタレナ号が、南フランスからイスラエルの海岸に航行してきた。ベン=グリオンはすでに正式にIDFに編入されていたイルグンの分派活動を許さず、武器の引渡しを求めたが、ベギンはこの要求に応じなかった。20日にはアルタレナ号はクファル・ヴィトキン沿岸に接近した。結果イスラエル軍と銃撃戦となり、その場でイスラエル軍側2名、イルグン側6名の死者を出した。上陸したイルグンは降伏し、命令に従うことを約束したが、アルタレナ号はその場を去っていった[14]

翌21日夜、ベン=グリオンと国防次官レヴィ・エシュコル、シモン・ペレスらはテルアヴィヴから少し内陸にあるラマト・ガンの陸軍本部で反対派の襲撃に備え、ライフル片手に一夜を過ごした。その頃、ベギンらの乗るアルタレナ号は南下してテルアヴィヴに向かっていた。ベン=グリオンは彼らに繰り返し武器の引渡しを命じたが、拒否された。アルタレナのイルグン勢は海岸付近に集結したイスラエル軍に対し機関銃を浴びせ、戦端を開いた。応戦で船は炎上した[14]22日、テルアヴィヴ海岸近くで砲撃され、煙を上げるアルタレナ号


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