ダンヌンツィオ
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ダンヌンツィオはドゥーゼが主役を演じるよういくつかの演劇、例えばLa Citta morta(死都、1898年)やFrancesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)を書いた[2]が、この激しい男女関係は1910年に終りを告げる。

1897年には3年任期の下院議員に選出され、そこでは無所属として過ごした。1910年にはその放縦な生活から多額の債務を負い、債権者から逃れるためフランスに逃亡した。フランスでは作曲家クロード・ドビュッシーと意気投合、聖史劇『聖セバスティアンの殉教』(1911年)が生まれた。

第一次世界大戦の開戦とともにイタリアに帰国したダンヌンツィオは、大衆に向けて連合国側に立っての参戦を訴える演説を行う。彼自身は志願して戦闘機パイロットとして参戦、飛行中の事故で片目の視力を失う。1918年8月9日には第87戦闘機中隊を率い、700マイルの往復飛行を行いウィーンプロパガンダ用のビラを撒布するという業を演じた(ダンヌンツィオのウィーン上空飛行(英語版))。またこの大戦中、イタリア軍に義勇兵として参加従軍した日本人下位春吉と意気投合し、親交を深めた。

彼の国家主義的立場はこの大戦の経験により、より強固なものになった。彼はイタリア国内で広く政治運動を行い、イタリアが大戦中に得たヨーロッパの一等国としての役目を戦後も果たしていくべきだと主張した。パリ講和会議で、フィウーメ(いわゆる未回収のイタリアの一部。現クロアチア領のリエカ)をセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)に割譲すべしとの結論が出されたことに激怒したダンヌンツィオは、1919年9月12日ロンキ・ディ・モンファルコーネから、自らを「司令官」(イタリア語: Comandante)とする「軍団」(イタリア語: Legionari)と称されるイタリア人武装集団を率いて進軍し(ロンキ進軍)、フィウーメ市を占拠、アメリカイギリス、フランス3軍から組織された守備軍を追放した。この時のダンヌンツィオのスローガンが「全ての抑圧された人々の解放」であり、十月革命を支持するというものだった。この行動からダンヌンツィオはウラジーミル・レーニンに「革命家」として絶賛される[要出典]。

彼らはイタリアによるフィウーメ併合を要求した。これはイタリアの悲願でもあったが、国際関係の悪化を懸念してイタリア政府は国境線を封鎖、武装組織の投降を促した。そこでダンヌンツィオは1920年1月に政府首班として元イタリア社会党員でアンジェロ・オリベッティ(it:Angelo Oliviero Olivetti)とともに「Pagine libere」を書いた革命的サンディカリストのアルチェステ・デ・アンブリス(it:Alceste De Ambris)を任じ、9月にデ・アンブリスによって後のイタリア本国のファシスト国家機構の先駆となるカルナーロ憲章(it:Carta del Carnaro)が発布、フィウーメの独立を宣言した(カルナーロ=イタリア執政府)。更に彼は国際連盟に対抗する組織を計画、被抑圧民族(例えばフィウーメのイタリア人バルカン半島スラブ人民族分離主義者など)を糾合することを構想したが、これは失敗した。彼は1920年のイタリアとセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国間のラパッロ条約1922年の独ソ間の条約と異なるので注意)を無視し、イタリア本国にまで宣戦布告したが、イタリア海軍による艦砲射撃を受け、12月に投降した。

フィウーメ占拠事件後のダンヌンツィオはガルダ湖畔の自宅に隠退し、著作活動を行った。しかしフィウーメ時代の側近との連絡を保っており、政界に隠然たる勢力を持っていた[3]。彼はムッソリーニに多大の影響を与えたのは事実だが、彼自身は後のファシスト政権に直接関与したことはなかった。1922年のファシスト党によるローマ進軍の前後には、彼の声望を利用してファシスト党の行動を抑制しようとする動きがあり、ダンヌンツィオとその側近も同様の考えを持っていた[4]。8月3日にはファシスト行動隊に占拠されたミラノで演説を行っているが、その演説はむしろファシスト党の行動に反対するものであった。しかし美しいがレトリックに富み、難解な彼の演説はむしろファシスト党を激励する物と受け止められ、ファシスト党も「英雄が我々を支持した」とおおいに利用した[5]


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