ダンテ・アリギエーリ
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ダンテの名声は、生前は亡命地であるラヴェンナのみにとどまるものであった[8]が、徐々にイタリア各地へと広がり、1340年には『神曲』の最初の注釈書が著され[8]、1350年頃にはかつてダンテを追放したフィレンツェにおいても受け入れられるようになっていった[9]ジョヴァンニ・ボッカッチョはダンテの最初の賛美者の一人として知られており、1373年にはフィレンツェ市の招きに応じて世界初のダンテに関する講演会を行うなど、ダンテの再評価と普及に大きな役割を果たした[10]

しかしルネサンス期が終わって以降、イタリアにおいてダンテは久しく忘れ去られていたことはあまり知られていない。イタリアのロマン主義詩人アルフィエーリによれば、イタリアで『神曲』を読んだことのある人は30名もいないとしている。スタンダールによると1800年ごろ、ダンテは軽蔑されていたとまで記しているくらいである。[11]

ゲーテもダンテ作品に親しんではいたものの、『イタリア紀行』においてダンテに言及することはほぼない。彼はダンテを偉大と認めつつも「ダンテの不快な、しばしば嫌悪すべき偉大さ」[12]と否定的な評価をしばしば下している。フランスの古典主義の作家や批評家はダンテをほぼ黙殺しており、批評家サント-ブーヴや画家のドラクロワらのロマン主義の時代にようやく復権した。

イタリアでは統一運動とナショナリズムの高揚によって、ようやくダンテは注目されるようになり、1865年に行われた国主催のダンテ記念祭によって、現在のようなイタリア国民の最大の精神的代表者としての地位を得ることになった。
著作神曲の初版(1472年4月11日発行)

新生』La Vita Nuova 1293年頃
ソネット25篇、カンツォーネ5篇、バッラータ1篇の合計31篇の詩(数え方には異同あり)から成る詩文集。ベアトリーチェの夭逝という悲報を聞いて惑乱したダンテが、生前のベアトリーチェを賛美した詩などをまとめたもの。

神曲』La Divina Commedia 1307年頃 - 1321年
代表作の叙事詩。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部構成から成る。作者のダンテ自身は、生身のまま彼岸の世界を遍歴し、地獄煉獄天国の三界を巡るという内容である。

『饗宴』Il Convivio 1304年 - 1307年
序章と14篇のカンツォーネおよび注釈から成る全15巻の大作として構想されたが、第4巻で中断した。ダンテの倫理観が込められた「知識の饗宴」は、当時の百科全書として編まれたとされる。

俗語論』De Vulgari Eloquentia 1304年 - 1307年
ダンテの母語イタリア語について考察したラテン語論文。言語問題を取り上げ、規範的な「文語」と流動的な「俗語」を区別した。イタリア語の方言の中から文語の高みにまで達しうるものを捜し求め、トスカナ地方の方言をその候補とする。 黒田正利訳『世界大思想全集 哲学・文芸思想篇4』河出書房新社、1961(昭和36)年所収

『帝政論』De Monarchia 1310年 - 1313年?
全3巻。ダンテ自身の政治理念をあらわしたもので、皇帝の正義や宗教的権威の分離などについて説く。 中山昌樹訳『ダンテ全集 第8巻』 新生堂、1925(大正14)年所収(国立国会図書館デジタルコレクション) 黒田正利 訳『世界大思想全集 哲学・文芸思想篇4』河出書房新社、1961(昭和36)年所収 小林公訳『帝政論』中公文庫、2019(平成30)年 
その他旧10000リレ紙幣(1948年 - 1963年)。裏面にダンテの肖像が描かれている。

現在フィレンツェにあるダンテの生家は観光用に建てられたもので、実際の家はフィレンツェを追放された後に破壊されているため現存していない。

ダンテの家系は現在に至るも存続し、ワイン業「セレーゴ・アリギエーリ」を営んでいる。(参考:新聞記事)

1948年から1963年まで発行された10000イタリア・リレリラの複数形)紙幣の裏面に肖像が採用されていた。

ダンテが用いたとされる「ダンテスカ」(ダンテ風の意)は、イタリアのルネッサンス期に用いられたX型の脚の折畳み椅子[13]

旭江文庫

ダンテ研究家の大賀寿吉(1870?1937)が集めた約3000冊のダンテ関連の蔵書コレクションが京都大学付属図書館に寄贈されている[14]。文庫名は大賀の号・旭江に由来する。大賀は岡山生まれで、武田製薬に勤務しながら、原書はもとより、新聞、雑誌の記事に至るまでダンテに関するあらゆるものを収集した。武田薬品の渉外顧問時代、欧米から貴重なダンテ関連書を店の費用で医薬品とともに輸入していたが、当主の5代目武田長兵衛は黙認していた[15]。大賀はダンテ研究を通じて山川丙三郎や京大の教授陣のほか、ベネデット・クローチェアーノルド・J・トインビーらとも交流があった[16]
脚注^ a b c 万有百科大事典 1973, p. 374.
^ 世界文化大百科事典 1971, p. 278.


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