ダンジグはデビューの以前から膝に剥離骨折の症状がみられており、これが能力の妨げになること危惧されていた[c 6][c 5]。デビュー戦の後、スティーヴンス調教師は思い切ってダンジグに手術させ、膝にボルトを入れて剥離した部分を固定した。手術後は暖かいフロリダに移し、そこで負担の少ないプール調教などで慣らしていった[c 7]。
競走に復帰したのは3歳春シーズンとなった5月のアケダクト競馬場に行った6ハロン(約1206メートル)の一般戦で、11か月ぶりの出走であった[c 7]。単勝1.3倍に支持されたダンジグはスタートとともに先頭に立ち、キャンターで独走状態に入り、そのまま後続に7馬身の差をつけて圧勝した[c 7]。2週間後のベルモントパークで迎えた7ハロン(約1407メートル)の一般戦では、単勝1.1倍という圧倒的な支持を受けると、鞍上のエディ・メイプル騎手が負担を抑えながら走ったにもかかわらず、2着に5馬身3/4差をつけて再び圧勝した[c 7]。
スティーヴンスはダンジグの肢が十分に良好ではないため、まだステークス競走では使わず、次戦もモンマスパーク競馬場の一般戦を予定していた。しかし、膝のX線撮影写真には亀裂が大きくなっていることが確認され、獣医師からは「もう一度競走をさせたらこの馬の命はない」と警告されたことで、引退を決意した[c 8][c 9]。
種牡馬として「ダンジグ系」も参照
競走を引退後、ダンジグは1981年よりケンタッキー州のクレイボーンファームで種牡馬となった[1]。セス・ハンコック主導のもと8万ドルのシンジケートを組まれたが、ニューヨーク以外ではほぼ無名であったダンジグのシンジケート株を売るのは難儀し、クフャトコフスキが多くを受け持つ形になった[c 10]。
しかし知名度とは裏腹に、初年度産駒からアメリカ最優秀2歳牡馬となったチーフズクラウン、アーリントンワシントンラッシーステークス(G1)勝ち馬コントラダンス、ハリウッドフューチュリティ(G1)勝ち馬ステファンズオデッセイといったG1馬を多数出す成功を収める。さらに2年目の産駒にはベルモントステークス勝ち馬ダンジグコネクション(英語版)を出すなど、幅広い距離での適性があることを証明した[c 8]。1991年より北米リーディングサイアーとなり、1993年まで3年連続でその座に就いた[c 10]。アメリカジョッキークラブの統計によれば、競走馬登録された産駒1099頭のうち687頭が勝ち上がり、198頭がステークス競走に優勝している[1]。
またヨーロッパや日本などでも活躍馬を出し、ジュライカップ優勝のグリーンデザートのような芝への適性、ひいてはアメリカ国外での適性を示す産駒も多く出している[c 8]。
グリーンデザートやデインヒルなど後継の種牡馬もまた成功し、2016年頃にはノーザンダンサー系のおよそ50%がダンジグ以降の父系に支配されていた[c 11]。これらの父系は、総称してダンジグ系(Danzig line)[注 1]と呼ばれている[c 11][c 2][4]。