ダルムシュタット
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1930年代からダルムシュタットでも国家社会主義が急速に力をつけていた。1938年水晶の夜にはシナゴーグに火が付けられ、多くのユダヤ人商店が襲撃された。第二次世界大戦では、1944年9月11日から12日にかけて「大火の夜」と呼ばれる激しい爆撃とそれに伴う火災によって、11,500人の死者を出す甚大な被害を受けた。1945年3月25日、アメリカ軍がこの街を占領し、ダルムシュタットにおける戦争は終結した。

戦後の復興では、瓦礫の山と化したこの街を速く立ち直らせるため、装飾を排した実用本位の建築物が建設された。それでも城館や市庁舎、国立博物館といった重要な歴史建築は再建された。多くの研究機関が設置され、1977年に「学術都市」の呼称を獲得した。「マチルダの丘」は2021年にユネスコ世界遺産に登録された[6]
「ダルムシュタット」の名前

「ダルムシュタット」の名前の由来は、明らかでない。この入植地の現存する最も古い記載は、入植から何世紀も経った11世紀のもので「Darmundestat」と表記されている。この名前の由来を説明する仮説はいくつかある。

御料林管理人(Forstwart)と推測される>Darmund<なる人物の居住地説
[7]

darreが門あるいは障害を意味し、mundは防衛を表す。従ってDarmundestatは「防備を固めた街道沿いの入植地」を意味する。

darはオークまたは樹木、montは山であるとする説。

ダルムバッハ (Darmbach) を名前の由来とする説。この説では、ダルムシュタットは渓流沿いの街 (Dam-unda-stat) あるいは荒れ地の川沿いの街 (Darm-unda-stat)であるとする。

宗教

宗派比率信者数
プロテスタント35.7 %49,762
カトリック19.8 %27,591
その他44.4 %61,786

キリスト教プロテスタントの市教会

ダルムシュタットは、宗教改革までマインツ大司教領に属していた。1526年ヘッセン=ダルムシュタット方伯フィリップ寛容伯ルター派の教義に基づく宗教改革を行い、以後長い間ダルムシュタットはルター派の都市であった。改革派教会1770年から1771年になって初めて認知され、宗教儀式を行った。首都ダルムシュタットにはプロテスタントのヘッセン地方教会の執務期間である役員会が置かれたが、1934年または1947年にフランクフルトおよびナッサウ地方教会に合併された。さらにダルムシュタットにはシュタルケンブルク監督教区の教区監督官の居館もあった。現在、自由教会を除くダルムシュタットのプロテスタント教会組織はいずれもヘッセンおよびナッサウ・プロテスタント教会の下部機構であるダルムシュタット市監督管区に属す。ルーテル派の女子修道会であるマリア福音姉妹会も存在する。

ローマ・カトリック教会は、遅くとも18世紀には再び組織されていた。1790年に活動を許され、典礼を執り行った。市の小教区はマインツ司教区ダルムシュタット首席司祭区に属す。

この他ダルムシュタットには様々なキリスト教系の自由教会がある。
ユダヤ教

ダルムシュタットにはユダヤ教の組織もある。新しいシナゴーグは1988年に完成した。

2003年10月、市立病院敷地内の工事現場で、1938年に蹂躙されたシナゴーグの遺構が発掘された。旧シナゴーグは1873年から1876年に建設されたもので、1940年に消火用水貯水池建設のために一部が破壊され、1970年の病院拡張に伴って完全に取り壊された。発掘では基礎部分の遺構の他に、ワイン室から暖房換気設備やたくさんのガラス片・金属片が現れた。州文化財保護局の出土品保全に関するコンセプトは、「外観を取り繕うことなく、可能な限り手を加えずに破壊の歴史的瞬間」を追求するというものであった。旧シナゴーグを記念する発掘現場は訪れることが出来るようになっている[8]
イスラム教ヌールッディーン・モスク

ダルムシュタットには、宗派や民族グループの異なる様々なイスラム教組織がある。最大のモスクはアミール=スルタン・モスク(Emir-Sultan)と、 アフマディーヤ・イスラム教団(Ahmadiyya Muslim Jamaat)のヌールッディーン・モスク(Nuur-ud-din)である。この他にも、DITIBを含め多くの祈りの場がある。
人口推移

1937年4月1日、アルハイルゲンとエーバーシュタットが合併したことで、この街の人口は10万人を超えた。第二次世界大戦の間、1939年から1945年の間に人口は約40%減少した(115,000人 → 70,000人)。1953年に人口は戦前のレベルまで回復した。1971年にダルムシュタット市の人口は史上最大の142,133人に達した。公式記録に基づく2007年6月末現在の人口は140,347人であった。外国人比率は約16.5%であった。

以下は各時点での市域内の人口一覧である。1833年までは概算の算定値、以後は国勢調査結果(表中青地の箇所)または各時点での統計担当官庁による公式記録または市当局の記録に基づいている。ダルムシュタット市の人口推移

時点人口(人)
1570年1,220
1676年1,790
1772年9,800
1816年15,391
1846年12月3日26,300
1861年12月3日28,526
1864年12月3日29,225
1871年12月1日33,800
1875年12月1日37,273
1880年12月1日41,199
1885年12月1日43,146
1890年12月1日55,883

時点人口(人)
1895年12月2日63,168
1900年12月1日72,381
1905年12月1日83,123
1910年12月1日87,089
1916年12月1日71,410
1919年10月8日82,367
1925年6月16日89,465
1933年6月16日93,222
1939年5月17日115,196
1945年12月31日69,539
1950年9月13日94,788
1956年9月25日123,306

時点人口(人)
1961年6月6日136,412
1965年12月31日140,066
1970年5月27日141,224
1975年12月31日137,018
1980年12月31日138,201
1985年12月31日134,181
1987年5月25日134,272
1990年12月31日138,920
1995年12月31日138,980
2000年12月31日138,242
2005年12月31日139,103
2010年12月31日144,402

時点人口(人)
2011年5月9日143,499
2015年12月31日155,353
2020年12月31日159,174


行政ダルムシュタット市庁舎
市議会

ダルムシュタット市の市議会は71議席からなる。2021年の議会選挙結果に基づく議席配分は以下の通り[9]


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