ダラス
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ダラス・フォートワース都市圏においてフォーチュン500に23社が選ばれ、テキサスで2番目に、全米で4番目に多く[8][9]、うち11社がダラス市内にある[10]。大学およびカレッジが都市圏内に41校あり、テキサス州の都市圏で最多である。多種多様な民族や宗教を持つ人々が居住し、全米で最大のLGBTコミュニティの1つとなっている[11][12]。2018年、ウォレットハブにより全米で5番目に多様性のある都市に選定された[13]
歴史詳細は「en:History of Dallas」を参照

ネイティブ・アメリカンカドがこの地域に居住していた記録がある。18世紀、スペインの入植者がヌエバ・エスパーニャ副王領の一部としてテキサス州の領土所有を主張した。その後フランスフランス植民地帝国として所有を主張したが、定住には至らなかった。以来ダラスの歴史において、フランス、スペイン、メキシコテキサス共和国アメリカ連合国アメリカ合衆国と6つの国旗がはためいている[14]

1819年、アメリカとスペインの間でアダムズ=オニス条約が交わされ、ヌエバ・エスパーニャの北端がレッド川と定義され、のちのダラスはこの時正式にスペイン領となった[15]。1821年にメキシコ独立革命が起きるまでスペインに統治され、メキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州の一部とみなされた。1836年、ほとんどがアングロアメリカ人入植者からなるテクシャンテキサス革命によりメキシコから独立し、テキサス共和国を創立した[16]

テキサスが独立してから3年後、テネシー州の弁護士であるジョン・ニーリー・ブライアンが入植し、のちのダラスの周辺地域を調査した[17]。1839年、ブライアンは1匹の犬とネッドと呼ばれるチェロキーを伴い、トリニティ川の3つの分岐点の近くの絶壁に杭で印をつけて出発した[18]。2年後の1841年に戻り、恒久的な入植地を設立して「ダラス」と名付け、一帯で栽培される綿花の集散地として発展させた[19]。「ダラス」という名の起源は定かではないが、歴史研究家によるとペンシルバニア州フィラデルフィア出身の第11代アメリカ合衆国副大統領ジョージ・ダラスに因んで命名されたとされる。しかし他にも、その兄の海軍士官アレクサンダー・ダラス、ウォルター・R・ダラス、ジェイムス・R・ダラスなどを起源とする説もある[20][21]。テキサス州ヒューストンは祖先がスコットランドのレンフルーシャーのヒューストン村出身であるサミュエル・ヒューストンに因んで名付けられたことから、同じくスコットランドのマレーのダラス村から名付けられたという説もある[注釈 2]

1845年、テキサス共和国はアメリカに併合され、翌1846年、ダラス郡が設立された。1856年2月2日、正式にダラス市となった[22]。1800年代半ば、フランスの社会主義者たちがトリニティ川沿いに短期間ではあるがLa Reunionを設立し、のちにウエスト・ダラスと呼ばれるようになった[23]1890年、ジョージ・C・クラムによるダラスの地図

その後1872年には南北を結ぶMKT(ミズーリ・カンザス・テキサス)鉄道、翌年にはカリフォルニアパシフィック鉄道が開通したことにより、内陸の交通要衝として発展した。鉄道の建設に伴ってダラスはビジネスや取引の中心地となり、19世紀終盤には好景気となった。産業都市となり、州内のみならずアメリカ合衆国南部中西部から職を求める人々が集まった。1909年、15階建てのプレトリアン・ビルが建てられ、当時ミシシッピ川西部最初の超高層建築物、そして州最高層のビルとなった[24]。これによりダラスは突出した都市となった。サラブレッドの競馬場が建てられ、馬の所有者たちはダラス・ジョッキー・クラブを設立した。類似するドライバーズ・クラブが本拠地とするフォート・ワースにてレースが開催された。急速な人口増加により、求人や家の売買の競争率が上がった。

20世紀になってテキサス東部で油田が発見され、市況は大いに潤った。1910年にダウンタウンで起きたアレン・ブルックスへのリンチを伝える絵葉書

1910年、黒人男性のアレン・ブルックスが少女をレイプしたと非難され、何百人もの白人暴徒にリンチされた。ダウンタウンのメイン通りとエイカード通りの交差点にて、暴徒はブルックスを拷問して殺害し、「Welcome Visitors」(ようこそ)と書かれ装飾されたアーチ道に首に縄をかけて吊るした。何千もの市民が拷問を見物し、記念になりそうなものを集めたり撮影のためにポーズをとっていた[25][26]

1921年、メキシコ大統領のアルバロ・オブレゴンが元将官と共にダウンタウンのエイカード通りとカルス通りの交差点にある小さなメキシコ公園「リトル・メキシコ」(現フェアモント・ホテル)を訪れた[27]。リトル・メキシコ周辺の小規模コミュニティにはアメリカン・ドリームやより良い生活を求め、あるいは革命に押し出されてダラスにたどり着いたラテンアメリカ人が居住していた[28][29]

第二次世界大戦中、アメリカや連合国のために軍用車や戦闘機を製造する一大拠点となった。航空機産業誘致に成功し、とりわけ軍用機産業が発展して中南部最大の都市として目覚ましい発展を遂げた。イースト・ダラスのフォードの工場でジープ94,000台、軍用トラック6,000台以上が製造された[30]ノースアメリカンはダラスの自社工場にて練習機T-6、戦闘機P-51、爆撃機B-24など18,000機の戦闘機を製造した[31]暗殺事件数分前、ダラス郊外でオープンカーに乗るジョン・F・ケネディ大統領。隣には妻のジャクリーンがいる。

1963年11月22日にジョン・F・ケネディ大統領が大統領専用車にて市内のダウンタウンでパレード中、ディーリー・プラザ前のエルム通りを通過する際に暗殺事件が発生した[32]。大統領は狙撃から30分後、ダラスのパークランド記念病院で死亡が確認された。その汚名は世界中に知れ渡ることになり、「シティ・オブ・ヘイト」のレッテルを貼られてしまった。ウォーレン委員会が暗殺者リー・ハーヴェイ・オズワルドがケネディを撃ったと報告したビルの上2階は、大統領の人生や偉業について展示する歴史博物館となっている[33]

1970年に国際的な原油価格の高騰の恩恵を受け、市経済は活況を取り戻した。


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