ダライ・ラマ14世
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注釈^ ダライ・ラマ5世の時代に(一部を除く)全チベットの再統一が果たされ、ダライ・ラマ5世はその政教両面の最高権威として君臨したとされるが、その後の歴代ダライ・ラマがつねにチベット全体の支配者であったわけではない。その支配権の及んだ範囲は時期によって異なり、7世の代にはその権勢は全盛期と比較して非常に限定的になった。9世から12世までのダライ・ラマはいずれも夭折したため実権を行使する機会がなく、この時期のダライ・ラマは権威の象徴にすぎなかったとの見方もある。ダライ・ラマ政権の直轄地域も長らく中央チベットのウーに限られていた。ラサから遠い地方では世俗の領主や各宗派の大ラマがダライ・ラマの権威を認めながらもそれぞれの領地を支配して割拠しており、東チベットのカムでは清朝に服属する在地の諸侯が事実上の独立状態にあった。再びダライ・ラマ自身が名実ともにチベットに君臨したのは20世紀に入ってからのことである[5]
^ 2011年3月、ダライ・ラマ14世は政治的立場からの引退を表明し、それに伴って亡命チベット人憲章が改訂され、憲章上はいまだ元首であると考えられるが、ダライ・ラマの位置づけは政治的指導者から精神的指導者に変更された[6]
^ 最初にダライ・ラマの称号を授かったのはスーナムギャムツォ。
^ 「それまでに8人の子供が生まれていた」とある[14]。なお、「子供7人のうちの5番目の生まれ」という説もある[15]
^ チベット語表記:????????????????
^ チベット語表記:?????????????????????????????????????????????????
^ 教師としてついたのはレティン・リンポチェ(当初上級教師、後に教師からはずれる)、タタ・リンポチェ(当初下級教師、後に上級教師に昇格)、キゥツァン・リンポチェ(非公式の個人教師、元捜索隊長)、リン・リンポチェ(タタ・リンポチェのかわりに下級教師となった)。リン・リンポチェとは親友となった[23]
^ チベット語にはウ・チェンとウ・メという2種類の筆記形態があり、一方は私的な書き物、もう一方は公文書や書簡用となっている[24]
^ 少年のダライ・ラマの生活スケジュールについては次の通り。朝6時起床、着替えて1時間ほど祈祷と瞑想。7時に朝食を摂り、それから授業の開始。12時ちょうどに鐘が鳴り、昼休みとなり、子供らしく遊ぶ。1時に軽い昼食。食後すぐに授業が再開。一般教育。午後4時にお茶。その後2人のチェンシャプが来て、抽象的な論題(たとえば「心」の本性とは何か?)といった質問との格闘。午後5時半頃にようやく1日の試練から開放される。7時頃まで絵を描いたりして過ごし、夕食。夕食後は宮殿の内庭を散歩をしながら経典を暗誦したり祈祷をする決まりになっていたが、実際は子供らしく物語を考え出したりして時を過ごしたという[25]
^ 少年期のダライ・ラマ14世が受けた一般教育のカリキュラムの内容は仏教学で学位取得を目指す他の僧たちと同じで、主要科目・副科目に分かれ、次のような内容。主要科目:「論理学」「チベット芸術と文化」「サンスクリット」「医術」「仏教哲学」。この中でも「仏教哲学」が一番深遠で、5つに分類されていて、「プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜=智慧の完成)」「マディヤミカ(中観=中庸の道)」「アビダルマ(=形而上学)」「ヴィナヤ(=僧院生活の戒律)」「プラマーナ(=論理学認識論)」。副科目:詩歌、音楽・ドラマ、占星学、韻律・表現法・同義語研究[26]
^ 10歳の時から、チベットの僧院教育で基本とされている弁証法討論技術を熱心に学んだ。ダライ・ラマとして仏教哲学を知っているだけでなく、討論にも熟達している必要があったためである[27]
^ 政府の会議のある時には、授業は朝10時に中断し、その会議に出席した[28]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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