1935年7月6日、当時の中華民国青海省内のチベット北部アムド(現在の青海省海東市平安区)に属するタクツェル(英語版)の小さな農家にて、9番目の子供[注 4]として生まれた。なお、生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。貴族階級でもない。わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5?6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2?3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという[16]。生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという[14]。
幼名はラモ・ドンドゥプ(Lha-mo Don-'grub[注 5])と名づけられた。これは「願いを叶えてくれる女神」という意味である[17]。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められていて、有名な僧院クムブムで修行をしていた[18]。他にも18歳年上の姉としてチェリン・ドルマなどがいた[19]。見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという[20]。
3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」、続いて、青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている映像を「視た」、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家を「視た」ことだ、という。僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。
"Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思い、クムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて3階建てであることを発見し、その読みが正しかったと確信したという。捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた[21]。
捜索隊は身分を隠していたにもかかわらず、そこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという[21]。上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ[注 6](聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。